京都の歴史年表 文化のながれ

年号(西暦) 内容

崇峻天皇2(589)年 このころ,法観寺(八坂の塔)が創建されたと伝える。
推古11(603)年11月 秦河勝が小墾田宮で聖徳太子より仏像を受け,蜂岡寺を創建した。
推古31(623)年 六角堂(頂法寺)が創建されたと伝える。
斉明2(656)年 八坂郷に牛頭天王《ごずてんのう》が祀られ祇園社(八坂神社)が創建された。
天武6(677)年2月 天武天皇が賀茂別雷社(上賀茂神社)の社殿を造営した。
文武天皇3(699)年10月 天智天皇山科陵が補修された。この陵は,のちに平安京に近いこともあり,とくに尊崇された。
大宝1(701)年 秦都理が西京区松尾の地に松尾社を創建して秦氏の氏神とした。
大宝2(702)年4月 賀茂祭の日に騎射などが禁じられる(賀茂祭の初見)。
和銅4(711)年 秦伊呂具が稲荷社(伏見稲荷大社)を創建した。
延暦4(785)年 最澄が比叡山に比叡山寺(のちの延暦寺)を創建した。
延暦13(794)年 平安遷都にともない東寺・西寺が創建された。
延暦13(794)年 平野神社が創建された。
延暦14(795)年 平安京東西市の守り神として市比売《いちひめ》社が創建された。
延暦15(796)年 藤原伊勢人によって鞍馬寺が創建された。
延暦17(798)年7月 坂上田村麻呂が清水山寺(のちの清水寺)を創建した。
延暦19(800)年7月 桓武天皇が神泉苑へ行幸した(神泉苑の初見)。以後,天皇や廷臣の宴遊の場となり,三月観花・七月納涼・九月菊酒が恒例化した。
弘仁1(810)年 賀茂斎王が初めて置かれた。
弘仁5(814)年6月 最初の勅撰文学作品集(漢詩集)『凌雲集』が作られた。
弘仁9(818)年 書の名人とされた嵯峨天皇・空海・橘逸勢の3人が大内裏(平安宮)の諸門の額を書いた。
天長1(824)年3月 空海が神泉苑で祈雨法要を行った。このころ神泉苑では,雨ごいが頻繁に行われるようになった。
天長5(828)年12月 空海が九条坊門南・西洞院西に綜芸種智院を創建した。
斉衡3(856)年 仙遊寺(のちの泉涌寺)が創建された。
貞観1(859)年 吉田神社が創建された。
貞観11(869)年 神泉苑に66本の鉾を立て,祇園社から神輿を送り疫病退散を祈願した(祇園御霊会の始まり)。
貞観16(874)年6月 聖宝が笠取山に准胝・如意輪観音を安置し草庵を造った(醍醐寺の始まり)。
貞観18(876)年2月 淳和太皇太后(正子内親王)が嵯峨院を寺に改め,大覚寺と号した。
仁和3(887)年3月 光孝天皇の遺志をついで宇多天皇が仁和寺を完成した。
延喜5(905)年4月 最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が完成。これ以降鎌倉時代初めの『新古今和歌集』まで八編の歌集が勅撰和歌集として編集され,八代集と呼ばれた。
延喜13(913)年3月 亭子院で宇多法皇主催の歌合せが行われた。その多くが『古今和歌集』に採用され,後世の歌合せの模範になった。
延長2(924)年2月 これ以前に藤原忠平が法性寺を創建した。
承平5(935)年 このころに紀貫之が『土佐日記』を著した。
天慶1(938)年 空也が市町《いちまち》で庶民に布教した。
天暦1(947)年6月 天神より託宣を受けた多治比文子が北野天満宮を創建した。
天暦5(951)年10月 京都市内現存最古の木造建築物である醍醐寺の五重塔(国宝)が完成した。
天禄1(970)年6月 はじめて祇園御霊会が官祭として行われ,以後毎年6月14日に行われるようになった。
長保3(1001)年5月 疫神を祀るため紫野に今宮神社が創建された。
長保3(1001)年 このころ,清少納言が『枕草子』を著した。
寛弘1(1004)年12月 皮聖行円が一条北辺に行願寺(革堂)を建立し念仏を唱え布教した。
寛弘5(1008)年 源氏物語車争図(京都市歴史資料館) 紫式部日記にこのころ『源氏物語』が評判になっていたことが記される。
寛仁3(1019)年7月 藤原道長が無量寿院(のちの法成寺)の造営を始めた。
長久1(1040)年 『和漢朗詠集』が完成した。
永承7(1052)年3月 藤原頼通が宇治の別荘を寺院とし平等院を創建した。翌年には鳳凰堂が造営された。
承暦3(1079)年4月 このころ賀茂祭見物のために巨大な桟敷が造られ,しばしば禁止令が出された。
永長1(1096)年6月 祇園御霊会にともない田楽が大流行し,庶民から貴族まで装束を競い,2か月余り日夜踊り狂った(永長の大田楽)。
嘉承1(1106)年 この年以後,『今昔物語集』が成立した。
大治2(1127)年6月 祇園御霊会の行列が美麗を尽くし見物人を驚かせた。また祭礼に田楽が取り入れられ,以後,猿楽や風流などを伴う盛大な祭礼になった。
久寿1(1154)年4月 やすらい祭(中田昭撮影) 紫野今宮社で「夜須礼」と号した疫病除けの舞踊が行われた(やすらい祭の創始)。
永暦2(1161)年 「都百景」から三十三間堂(佛教大学) 後白河法皇が法住寺殿を作り御所とした。その中に長寛2年(1164)蓮華王院(三十三間堂)が建立された。
安元1(1175)年 この春,源空(法然)が初めて専修念仏(浄土宗)を唱えた。
治承3(1179)年 後白河法皇が『梁塵秘抄』を編んだ。
寿永元(1182)年 荒廃していた神護寺が後白河上皇・源頼朝の援助を受けて,文覚により再興された。
建仁2(1202)年 栄西が建仁寺を創建した。
建永1(1206)年 明恵が,荒廃していた度賀尾寺を華厳宗道場として再興し高山寺と号した。
建暦2(1212)年3月 鴨長明が『方丈記』を完成させた。
承久1(1219)年 藤原信実が『北野天神縁起絵巻』(国宝)を描いた。
仁治3(1242)年 泉涌寺境内に四条天皇陵が造営された。これ以降泉涌寺は皇室の香華所(菩提寺)として「御寺」とよばれた。
建長7(1255)年 九条道家の祈願により東福寺が創建された。
文永9(1272)年 親鸞の娘覚信尼が,10年前に没した親鸞の遺骨を移して,吉水の北辺に仏閣を建てた(本願寺の創始)。
文永11(1274)年 一遍が入京し,人々に念仏を勧めた(時宗の創始)。
弘安2(1279)年3月 嵯峨清涼寺で融通大念仏が行われた(嵯峨大念仏狂言の始まり)。
正応4(1291)年 亀山法皇が南禅寺を創建した。
永仁2(1294)年 日蓮の高弟日像が入京。以後,法華宗(日蓮宗)が京都に広まった。
元徳1(1330)年 吉田兼好が『徒然草』を完成させた
建武元(1334)年8月 二条河原に落書が掲げられ,世相を風刺した。
建武4(1337)年 関山慧玄が妙心寺を創建した。
暦応2(1339)年10月 足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため,洛西嵯峨の亀山殿を改めて禅寺とし天龍寺を創建した。
康永1(1342)年4月 京都・鎌倉を合わせた八か寺を五山,十か寺を十刹とした(五山十刹の制)。康暦2年(1380)以後京都・鎌倉五山は区別される。
延文2(1357)年 春 このころまでに『菟玖波集』(准勅撰連歌撰集)が編纂された。連歌の社会的地位を確立した撰集で,和歌における『古今和歌集』にも比すべき撰集ともいわれた。
永和元(1375)年 このころ,観阿弥清次・世阿弥元清父子が今熊野で猿楽を演じ,これを機に将軍足利義満の後援を受けるようになった。
至徳2(1385)年11月 足利義満が相国寺を創建した。
至徳3(1386)年7月 南禅寺を天下第一,五山の上とし,天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山と定めた。
応永4(1397)年4月 足利義満の山荘が上棟。この北山殿は義満夫人日野康子の没後,足利義持によって寺院に改められ鹿苑寺(金閣寺)が創建された。
応永10(1403)年 東寺南大門の前に屋台の茶店が現れ,一服一銭と称し参詣人に茶を飲ませた。
寛正3(1462)年2月 池坊専慶が京極持清に招かれ立て花を行い評判になった。このころから池坊専慶の活躍が始まった。
文明10(1478)年 山科本願寺跡蓮如が信証院を堺から山科に移した(山科本願寺の創建)。
文明12(1480)年 このころ一条兼良が『尺素往来』を著わした。栂尾茶・宇治茶・祇園御霊会の山鉾等の事が記され,室町時代の京都を知る貴重な資料。
文明14(1482)年2月 足利義政が東山に山荘造営を開始。義政の死後寺院に改められ慈照寺(銀閣寺)が創建された。
文明16(1484)年11月 吉田兼倶が神楽岡に全国の神々を合祀して大元宮を建て,唯一神道(吉田神道)を唱えた。
明応9(1500)年6月 応仁の乱によって三十余年途絶えていた祇園会が復興した。
大永6(1526)年8月 この月頃に村田宗珠を初めとする下京茶湯が盛んになった。
天文19(1551)年12月 フランシスコ・ザビエルが宣教師として初めて入京したが,11日間滞在しただけで山口へ戻った。
永禄2(1559)年8月 ガスパル・ビレラが京都布教を志し入京。翌年初めに幕府から京都布教の許可を受けた。その後,戦乱による中絶はあったが,ルイス・フロイス,オルガンティーノ・ニエッキなどが精力的に布教を進めた。
元亀2(1571)年7月 盂蘭盆会の風流踊が華麗を極め,このころ,毎夜のように京都のあちらこちらの町組で踊りの競演が見られた。
天正3(1575)年10月 織田信長が京都妙光寺で大茶会を催し,千宗易(利休)が茶頭をつとめ,信長の茶頭としての地位を確立した。
天正4(1576) 年7月 南蛮寺(蛸薬師室町西入姥柳町)が竣工し,献堂式が行われ,多くの信者が参集した。
天正15(1587)年6月 南蛮寺跡 豊臣秀吉がバテレン(宣教師)追放令を出す。これにより京都の南蛮寺をはじめとする教会は破壊され,宣教師は九州へ逃れた。
天正15(1587)年10月 豊臣秀吉が北野神社境内の松原で大茶会を催した(北野大茶湯)。
慶長1(1596)年11月 京都でフランシスコ会の宣教師・信者26名が捕らえられ,長崎に護送され処刑された(二十六聖人殉教)。
慶長2(1597)年 後陽成天皇の命で木活字版『日本書紀神代巻』などを刊行。慶長勅版と呼ばれた。このほか角倉素庵による嵯峨本の出版,三要元佶による円光寺版の出版など,江戸時代初めには木活字による古典の出版が流行した。
慶長4(1599)年4月 前年没した豊臣秀吉の墓が阿弥陀峰に作られた。山麓には秀吉を祀る豊国社が創建され毎年祭礼が行われた。とくに慶長9年(1604)には町衆が大規模な踊りを奉納した。
慶長8(1603)年 出雲の阿国が北野で,男装をして茶屋女と戯れる「かぶき踊」を始めた(阿国歌舞伎の初見)。
慶長11(1606)年1月 清洲松平家中の浅岡重政が三十三間堂において51筋を射通して天下一と称された。
慶長12(1607)年4月 豊臣秀吉の朝鮮出兵後はじめて朝鮮通信使節が入洛し,大徳寺に宿泊した(同年6月復路通過)。以後江戸時代を通じて12回の通信使が来日し京都を経由して江戸へ向かった。
慶長18(1613)年 翌年にかけて幕府のキリスト教徒弾圧が京都に波及。棄教に従わない宣教師や信者が追放された。
元和5(1619)年 本阿弥光悦が徳川家康から鷹ヶ峰の地を与えられ,法華信徒の町を開いた。
元和6(1620)年6月 徳川秀忠の娘徳川和子(東福門院)が後水尾天皇中宮として入内した。入内に伴う幕府からの援助が禁裏財政を大いに潤し,宮廷文化の開花,修学院・桂両離宮の造営などが可能となった。
元和7(1621)年4月 南禅寺門前・三条油小路などで火事が頻発したため,煙草を厳禁とした。このころ新奇な風俗として煙草が流行した。
元和年間(1615~1624) このころ,瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が粟田口で製陶を始めた(粟田口焼)。京焼最古の窯とされる。
寛永1(1624)年 八条宮智仁親王(後陽成天皇皇子)が桂に別荘(桂離宮)を造営した。
寛永3(1626)年 二条城襖絵狩野探幽が,二条城二の丸御殿の襖絵(重文)を描いた。
寛永10(1633)年 寛永6年(1629)に焼失した清水寺が徳川家光の援助によって再興された。
寛永15(1638)年 松江重頼の俳諧作法集『毛吹草』が成り,京都の名産が多く列記された。
寛永17(1640)年 武士・詩人である石川丈山が一乗寺に隠棲し詩仙堂を営んだ。
正保1(1644)年7月 京都のシンボル的存在である東寺五重塔(国宝)が桂昌院(徳川綱吉の生母)の発願で再建された。
万治1(1658)年7月 狂歌師中川喜雲の著作で最初の京名所記『京童』が刊行された。
万治2(1659)年 後水尾天皇が修学院に別荘(修学院離宮)を造営した。
寛文1(1661)年5月 明から渡来した隠元隆琦が,幕府より宇治の地を与えられ,黄檗山万福寺を創建した。
寛文2(1662)年 伊藤仁斎像(天理大学附属天理図書館) 儒学者伊藤仁斎が堀川下立売上るに私塾を開いた(古義堂)。天保13年(1842)には,松永家の講習堂と共に京都町奉行所から表彰されるなど,京都の私塾代表する地位にあった。
寛文2(1662)年 大文字五山送り火のうち「妙法」「船形」「鳥居」の名が名所案内記『案内者』に記され,このころには年中行事になっていた。
元禄4(1691)年3月 オランダ商館長の江戸参府に随行した医師ケンペルが京都に滞在した。京都のオランダ商館長旅宿は「阿蘭陀宿」と呼ばれ,海外の知識を得ようとする人でにぎわった。
元禄5(1692)年 宮崎友禅が扇絵のデザインカタログ『余勢ひいなかた』を刊行。このあと友禅は文様染めを手がけ友禅染を考案した。
元禄7(1694)年4月 幕府の援助により,応仁元年(1467)以来中絶していた賀茂祭(葵祭)が再興された。
元禄15(1702)年 このころ,京都の書店(出版業者)が七十余軒に及んだという。
元禄年間(1688~1704) このころ西陣織が最盛期をむかえ,西陣は数万人が機業に従事する一大産業地域になった。
享保1(1716)年6月 絵師尾形光琳が没した(59歳)。
享保14(1729)年 石田梅岩が車屋町御池上るの自宅で心学の講釈を始めた。梅岩の学問は石門心学とよばれ,京都の商人に歓迎された。
宝暦4(1754)年 閏2月 山脇東洋が六条牢屋敷(六角大宮西入)で我国で最初に男性刑死体の解剖を行い,それに基づいて宝暦9年(1759)に『臓志』を刊行した。
明和3(1766)年6月 祇園会山鉾の飾りに提灯が使われ,駒形提灯を立てた宵山が定着する。またこのころから宵山に屏風飾りが行われるようになった。
明和5(1768)年3月 学者知識人の人名録『平安人物志』の初版が刊行された。慶応3年(1867)まで9版が出版された。
安永5(1776)年4月 南画家池大雅が没した(54歳)。祇園真葛ヶ原に妻玉瀾と暮し,その跡は大雅堂として保存された。
安永9(1780)年 写実的な鳥瞰図を中心にした名所図会の最初として秋里籬島編『都名所図会』が刊行されベストセラーになった。
天明1(1781)年8月 二鐘亭半山の京都見聞録『見た京物語』刊行。本書の「花の都は二百年前にて今は花の田舎たり,田舎にしては花残れり」という一節は外から見た当時の京都観を表している。
天明3(1783)年12月 南画家与謝蕪村が没した(68歳)。
寛政1(1789)年 このころには金閣寺がすでに拝観料を微収しており,有名寺院の一般拝観のシステムが作られていた。
寛政5(1793)年 上田秋成(1734~1809)が大坂から京都へ移住し創作の拠点とした。
寛政7(1795)年7月 絵師円山応挙が没した(63歳)。遠近法を使った写実的な画風で京都画壇を大きく変えた。
寛政12(1800)年9月 絵師伊藤若冲が没した(85歳)
文化8(1811)年7月 絵師呉春(松村月渓)が没した(60歳)。円山応挙に学び,その一門は四条通近辺に住んだので「四条派」と呼ばれ京都画壇の中心になった。四条派の作品は京都の町人に非常に好まれた。
天保3(1832)年9月 頼山陽が没した(53歳)。山陽は文政5年(1822)に鴨川畔の三本木に書斎を建設,山紫水明処と命名(国指定史跡)。ここで『日本外史』(文政12年刊)や『日本政記』(弘化2年刊)の執筆・推敲を行った。
天保13(1842)年 このころ蘭学医新宮涼庭が,南禅寺門前に順正書院を開校。日本で始めて系統的な蘭法医学教育を行った。
弘化4(1847)年3月 公家子弟の教育機関である学習所が京都御所建春門外で開講した。のち学習院と改称し幕末には尊皇攘夷運動の根拠地になった。
万延1(1860)年 淀藩の藩校明親館(現明親小学校の前身)が設立された。京都市域唯一の藩校。
明治1(1868)年3月 政府から神仏分離令が出されると,北野天満宮・八坂感神院などは神社へ改称し,豊国社など多くの神社が再興された。
明治3(1870)年 京都府が舎密局を河原町二条下る旧長州藩邸に開局した。理化学や化学工業技術の研究・普及を目的とし,京都の近代化をリードした。
明治4(1871)年10月 西本願寺大書院で日本最初の博覧会が開催された。翌年には改めて第一回京都博覧会が西本願寺・建仁寺・知恩院で開会された。第一回京都博覧会では余興として「都をどり」が催され,以後恒例となった。
明治5(1872)年5月 福沢諭吉が京都の小学校を視察。のち『京都学校の記』を著しその制度を絶賛した。
明治5(1872)年 盂蘭盆会,清水寺舞台からの飛び降り等が新時代にふさわしくない迷信として禁止された。盂蘭盆会等の習俗の禁令は明治16年に解除された。
明治5(1872)年9月 「京都名所四季図」から集書院と京都中学(京都府総合資料館) 三条東洞院に図書館兼書籍販売所である集書院(京都府立図書館の前身)が開設された。
明治5(1872)年11月 京都市最初の公立病院である仮療病院(現京都府立医科大学附属病院の前身)が青蓮院内に開設された。明治13年に上京区河原町広小路へ移転し京都府医学校開校によりその附属病院となった。
明治5(1872)年 寺町通の寺院境内地の収用が進み,新京極通が開かれた。以後,この通りは劇場・飲食店などが建ち並び繁華街として繁栄した。
明治6(1873)年 ギュリックおよびベリーによって,京都でプロテスタント伝道が開始された。
明治8(1875)年11月 新島襄が同志社英学校を寺町丸太町上るに開いた。
明治11(1878)年 ドイツ人ワグネルが京都府に招かれ舎密局に着任。理化学を教授し陶磁器や七宝製造を指導した。
明治13(1880)年7月 京都府画学校(現京都市立芸術大学美術学部の前身)が京都御所内旧后里御殿に仮校舎で開校した。明治42年,京都市立絵画専門学校と改称。竹内栖鳳・上村松園等京都を代表する著名な画家を輩出した。
明治18(1885)年4月 『日出新聞』(京都新聞の前身)が創刊された。
明治19(1886)年12月 祇園社旧境内地などを利用し円山公園が開園した。その後も改善が続けられ,大正3年になってようやく完成した。
明治22(1889)年8月 第三高等中学校が大阪から左京区吉田に新築移転した。明治27年に高等学校令により第三高等学校(三高)となった。
明治28(1895)年3月 平安神宮が創建された。
明治28(1895)年10月 平安遷都千百年紀念祭が行われ,記念行事の一環として時代行列が行われた(時代祭の創始)。
明治30(1897)年5月 京都国立博物館 帝国京都博物館が開館した。明治33年京都帝室博物館と改称。大正13年に京都市に下賜され恩賜京都博物館になったが,昭和27年に国に移管され京都国立博物館となった。
明治30(1897)年6月 京都帝国大学が2番目の帝国大学として開校した。
明治31(1898)年3月 豊臣秀吉の墓である豊国廟が修復され,翌月には豊公三百年祭が催された。
明治33(1900)年6月 京都御苑東南に京都府立図書館が開館した。同42年現在地である左京区岡崎に移転した。
明治35(1902)年 大谷光瑞の発案で仏教東漸の研究調査を目的に組織された大谷探検隊が,中央アジアに向かって出発した(明治37年に帰国)。
明治36(1903)年4月 東宮(後の大正天皇)成婚記念事業として京都市紀念動物園が開園した。
明治36(1903)年5月 京都ハリストス正教会会堂が竣工した。
明治36(1903)年6月 岡崎公園が開園した。
大正4(1915)年 京都市教育会が市内に多くの史跡石標を建立した。石碑建立事業は,この後,京都史蹟会に引き継がれた。
大正9(1920)年4月 大学令による旧制大学として同志社大学が発足。同11年5月には龍谷大学と大谷大学が,同年6月には立命館大学がそれぞれ旧制大学となった。
大正12(1923)年11月 大典記念京都植物園(現京都府立植物園)が開園した。
昭和2(1927)年11月 市立円山音楽堂が竣工した。
昭和7(1932)年6月 京都放送局(JOOK)が開局した。のちのNHK京都放送局。
昭和8(1933)年11月 全国で2番目の公立美術館である大礼記念京都美術館(現京都市美術館)が竣工した。
昭和21(1946)年11月 京都で第一回国民体育大会が行われた。
昭和22(1947)年7月 5年ぶりに祇園祭山鉾巡行が復活した。このあと昭和25年には時代祭,28年には葵祭が復活した。
昭和24(1949)年4月 京都府立西京大学(現京都府立大学)が設置された。
昭和24(1949)年11月 湯川秀樹(京都大学)がノーベル物理学賞を受賞した。
昭和25(1950)年7月 鹿苑寺金閣が放火により焼失した。昭和30年に再建。
昭和26(1951)年12月 全国で5番目の民放ラジオ京都が開局した(現KBSラジオ)。
昭和31(1956)年5月 全国初の地方自治体交響楽団である京都市交響楽団が発足した。
昭和33(1958)年6月 初の姉妹都市盟約がパリ市との間で締結された。その後,ボストン,ケルン,フィレンチェ,キエフ,西安,グアダラハラ,ザグレブ,プラハとも締結。
昭和35(1960)年4月 京都会館が岡崎公園に開館した。
昭和41 (1966)年1月 京都・奈良・鎌倉を対象とする古都保存法が公布された。
昭和41(1966)年5月 国立京都国際会館が宝が池に開館した。
昭和53(1978)年10月 京都市が世界文化自由都市宣言を発し,これに基づく提言により国際交流会館(平成元)とコンサートホール(平成7)が建設され,国立国際日本文化研究センター(昭和62)が誘致された。
昭和56(1981)年4月 京都市中央図書館が丸太町七本松に開館した。
昭和56(1981)年9月 国指定文化財以外の未指定文化財の保護をはかるため,京都市が文化財保護条例を制定した。
昭和62(1987)年11月 第1回世界歴史都市会議が開催された。平成6(1994)年の第4回会議も京都で開催された。
平成6(1994)年10月 京都市史『京都の歴史』(10巻)と『史料 京都の歴史』(16巻)が完結した。
平成6(1994)年12月 ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」17か所が登録された。
平成18(2006)年11月 京都国際マンガミュージアムが開館する。
平成21(2009)年9月 ユネスコの世界無形文化遺産に「京都祇園祭の山鉾行事」が登録された。その後,平成28年(2016)12月に登録された「山・鉾・屋台行事」の一つに含められた。
平成25(2013)年6月 ユネスコの世界記憶遺産(世界の記憶)に藤原道長の日記である『御堂関白記』が登録された。
平成28(2016)年7月 祇園祭山鉾巡行の後祭が復活する。