 |
慶長8(1603)年 |
出雲の阿国が北野で,男装をして茶屋女と戯れる「かぶき踊」を始めた(阿国歌舞伎の初見)。 |
慶長11(1606)年1月 |
清洲松平家中の浅岡重政が三十三間堂において51筋を射通して天下一と称された。 |
慶長12(1607)年4月 |
豊臣秀吉の朝鮮出兵後はじめて朝鮮通信使節が入洛し,大徳寺に宿泊した(同年6月復路通過)。以後江戸時代を通じて12回の通信使が来日し京都を経由して江戸へ向かった。 |
慶長18(1613)年 |
翌年にかけて幕府のキリスト教徒弾圧が京都に波及。棄教に従わない宣教師や信者が追放された。 |
元和5(1619)年 |
本阿弥光悦が徳川家康から鷹ヶ峰の地を与えられ,法華信徒の町を開いた。 |
元和6(1620)年6月 |
徳川秀忠の娘徳川和子(東福門院)が後水尾天皇中宮として入内した。入内に伴う幕府からの援助が禁裏財政を大いに潤し,宮廷文化の開花,修学院・桂両離宮の造営などが可能となった。 |
元和7(1621)年4月 |
南禅寺門前・三条油小路などで火事が頻発したため,煙草を厳禁とした。このころ新奇な風俗として煙草が流行した。 |
元和年間(1615~1624) |
このころ,瀬戸の陶工三文字屋九右衛門が粟田口で製陶を始めた(粟田口焼)。京焼最古の窯とされる。 |
寛永1(1624)年 |
八条宮智仁親王(後陽成天皇皇子)が桂に別荘(桂離宮)を造営した。 |
寛永3(1626)年 |
狩野探幽が,二条城二の丸御殿の襖絵(重文)を描いた。 |
寛永10(1633)年 |
寛永6年(1629)に焼失した清水寺が徳川家光の援助によって再興された。 |
寛永15(1638)年 |
松江重頼の俳諧作法集『毛吹草』が成り,京都の名産が多く列記された。 |
寛永17(1640)年 |
武士・詩人である石川丈山が一乗寺に隠棲し詩仙堂を営んだ。 |
正保1(1644)年7月 |
京都のシンボル的存在である東寺五重塔(国宝)が桂昌院(徳川綱吉の生母)の発願で再建された。 |
万治1(1658)年7月 |
狂歌師中川喜雲の著作で最初の京名所記『京童』が刊行された。 |
万治2(1659)年 |
後水尾天皇が修学院に別荘(修学院離宮)を造営した。 |
寛文1(1661)年5月 |
明から渡来した隠元隆琦が,幕府より宇治の地を与えられ,黄檗山万福寺を創建した。 |
寛文2(1662)年 |
儒学者伊藤仁斎が堀川下立売上るに私塾を開いた(古義堂)。天保13年(1842)には,松永家の講習堂と共に京都町奉行所から表彰されるなど,京都の私塾代表する地位にあった。 |
寛文2(1662)年 |
大文字五山送り火のうち「妙法」「船形」「鳥居」の名が名所案内記『案内者』に記され,このころには年中行事になっていた。 |
元禄4(1691)年3月 |
オランダ商館長の江戸参府に随行した医師ケンペルが京都に滞在した。京都のオランダ商館長旅宿は「阿蘭陀宿」と呼ばれ,海外の知識を得ようとする人でにぎわった。 |
元禄5(1692)年 |
宮崎友禅が扇絵のデザインカタログ『余勢ひいなかた』を刊行。このあと友禅は文様染めを手がけ友禅染を考案した。 |
元禄7(1694)年4月 |
幕府の援助により,応仁元年(1467)以来中絶していた賀茂祭(葵祭)が再興された。 |
元禄15(1702)年 |
このころ,京都の書店(出版業者)が七十余軒に及んだという。 |
元禄年間(1688~1704) |
このころ西陣織が最盛期をむかえ,西陣は数万人が機業に従事する一大産業地域になった。 |
享保1(1716)年6月 |
絵師尾形光琳が没した(59歳)。 |
享保14(1729)年 |
石田梅岩が車屋町御池上るの自宅で心学の講釈を始めた。梅岩の学問は石門心学とよばれ,京都の商人に歓迎された。 |
宝暦4(1754)年 閏2月 |
山脇東洋が六条牢屋敷(六角大宮西入)で我国で最初に男性刑死体の解剖を行い,それに基づいて宝暦9年(1759)に『臓志』を刊行した。 |
明和3(1766)年6月 |
祇園会山鉾の飾りに提灯が使われ,駒形提灯を立てた宵山が定着する。またこのころから宵山に屏風飾りが行われるようになった。 |
明和5(1768)年3月 |
学者知識人の人名録『平安人物志』の初版が刊行された。慶応3年(1867)まで9版が出版された。 |
安永5(1776)年4月 |
南画家池大雅が没した(54歳)。祇園真葛ヶ原に妻玉瀾と暮し,その跡は大雅堂として保存された。 |
安永9(1780)年 |
写実的な鳥瞰図を中心にした名所図会の最初として秋里籬島編『都名所図会』が刊行されベストセラーになった。 |
天明1(1781)年8月 |
二鐘亭半山の京都見聞録『見た京物語』刊行。本書の「花の都は二百年前にて今は花の田舎たり,田舎にしては花残れり」という一節は外から見た当時の京都観を表している。 |
天明3(1783)年12月 |
南画家与謝蕪村が没した(68歳)。 |
寛政1(1789)年 |
このころには金閣寺がすでに拝観料を微収しており,有名寺院の一般拝観のシステムが作られていた。 |
寛政5(1793)年 |
上田秋成(1734~1809)が大坂から京都へ移住し創作の拠点とした。 |
寛政7(1795)年7月 |
絵師円山応挙が没した(63歳)。遠近法を使った写実的な画風で京都画壇を大きく変えた。 |
寛政12(1800)年9月 |
絵師伊藤若冲が没した(85歳) |
文化8(1811)年7月 |
絵師呉春(松村月渓)が没した(60歳)。円山応挙に学び,その一門は四条通近辺に住んだので「四条派」と呼ばれ京都画壇の中心になった。四条派の作品は京都の町人に非常に好まれた。 |
天保3(1832)年9月 |
頼山陽が没した(53歳)。山陽は文政5年(1822)に鴨川畔の三本木に書斎を建設,山紫水明処と命名(国指定史跡)。ここで『日本外史』(文政12年刊)や『日本政記』(弘化2年刊)の執筆・推敲を行った。 |
天保13(1842)年 |
このころ蘭学医新宮涼庭が,南禅寺門前に順正書院を開校。日本で始めて系統的な蘭法医学教育を行った。 |
弘化4(1847)年3月 |
公家子弟の教育機関である学習所が京都御所建春門外で開講した。のち学習院と改称し幕末には尊皇攘夷運動の根拠地になった。 |
万延1(1860)年 |
淀藩の藩校明親館(現明親小学校の前身)が設立された。京都市域唯一の藩校。 |