いけばな
文化史22

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いけばなとは

 「いけばな」とは,自然の草花や樹木を素材として,それを器とともに組み立てる伝統芸術です。室町時代から江戸時代にかけて,池坊(いけのぼう)を中心に大成されました。立花(たてはな・りっか)・抛入れ(なげいれ)花・生花(せいか)・盛花(もりばな)などの様式があり,また花道(かどう)と総称されたこともありましたが,現在では「いけばな」の呼称が一般的です。

いけばなの源流

 挿した花を観賞するということは古くから行われてきたことでした。『枕草子』(23段)に

   勾欄(こうらん)のもとに,あをき瓶のおほきなるをすゑて,
   桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを,
   いと多くさしたれば,勾欄の外まで咲きこぼれたる

と見えるように,大きな瓶に大ぶりの花を挿したものが,当時の瓶花の主流だったようです。また,平安期の花合(はなあわせ)や前栽合(せんざいあわせ)なども,縁からそれらを観賞したようで,特にさまざまな草木を植え込んだ前栽は,草体のいけばなの源流のひとつと見られています。

 こうした「美」の対象としての花と,神の依代(よりしろ)として神聖視された花や仏前に供えられた花が習合して,いけばなの源流が形作られていきました。

七夕法楽花会と池坊の登場
「いけばな発祥の地」石標(六角堂内)。上部の石板は『池坊専応口伝』の写し。

 室町時代になると,三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の頃から花の御所や北山殿で,七夕法楽として仏教的行事の中で花を立てることが,盛んに行われるようになりました。朝廷でも15世紀のはじめに,伏見宮(ふしみのみや)貞成親王(さだふさしんのう)の邸宅であった伏見殿で,七夕法楽花会が数多く行われていました。花鳥の絵を掛け,屏風を立て,そこに瓶に挿した花を飾り楽しみました。この花会は仏教的行事とはいえ,花を見ながら歌を詠み酒を飲むという,かなり自由な雰囲気のものでした。花会の後に花は一般に公開したため,徐々に「見せる」ということが意識されるようになります。

 花会において花を立てることは,その周囲の飾り付けを含めて,依頼を受けた専門の者が担当していました。将軍に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の立阿弥(りゅうあみ)や能阿弥(のうあみ),山科家の雑掌(ざっしょう)である大沢久守(おおさわひさもり),六角堂(頂法寺<ちょうほうじ>)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)らがそうです。中でも池坊専慶は,寛正3(1462)年に京極持清(きょうごくもちきよ)に招かれ花を立て,大変評判となりました。

 彼らの登場の背景には,床の間を持つ書院造の出現にともない,その座敷飾として花を立てることの需要が高まったことがあります。その後,立花は装飾性を強めていきます。

 16世紀前半には,文阿弥(もんあみ,2世)と池坊専応(いけのぼうせんのう)の二人がそれぞれ『文阿弥花伝書』『池坊専応口伝』という書を残し,立花の理論・様式の基礎を確立しました。文阿弥は青蓮院(しょうれんいん)尊鎮法親王(そんちんほっしんのう)のもとで,専応も禁中や青蓮院で,たびたび花を立てています。文阿弥(二世)と池坊専応の評判は

  池の坊御前の花をさすなれば

   一瓶なりとこれや学ばん

  すいに花たつる文阿弥当世の

   人の心にかなふなるべし    

と歌に詠まれています(『多胡辰敬家訓』<たごときたかかくん>)。

立花の大成
右は二代池坊専好の立花を再現したもの。(池坊頂法寺会館)

 豪壮で華麗な安土桃山時代の建築に合わせるように,立花も大型で複雑なものへと変化していきます。初代池坊専好(いけのぼうせんこう,1536〜1621)は文禄3(1594)年に前田利家邸において座敷飾を施し,「池坊一代の出来物」と賞賛されました。この時の飾りは「砂の物」といって,大きな盆に砂を張りその上に花を立てたもので,平安時代の洲浜台(すはまだい)に原型があります

 それを受け,立花を大成させたのが二代池坊専好(1576〜1658)です。後の公家近衛家煕(このえいえひろ)の談話筆録『槐記』(かいき)には「立花の中興は専光(好)に止りたり。専光を名人とす。」と評されています。後水尾上皇(ごみずのおじょうこう,1596〜1680)は立花好きとして有名で,幕府との争いから逃避するかのように,専好を召して立花会を頻繁に開いていました。そこで専好は,上皇・公家・僧侶に対して指導的役割を果たしており,専好の作品を図化したものは,現在も多数残されています。

 この頃から花といえば池坊だという考えは,人々の間に広がっていきます。専好による様式の完成以降は,立花(たてはな)は立花(りっか)と読まれるようになります。

 また,花器も,それまでは他の用途に作られた器が転用されていましたが,この頃になると国内で大型の立花瓶が生産されるようになります。

茶花・抛入れ花・生花

 形式が確立し大型化していった立花に対して,庶民の間では形にとらわれないシンプルな花が求められました。室町期には自由な形のいけばなは「生花」「なげいれ」と呼ばれ,これは安土桃山期に茶席を飾る茶花として千利休(せんのりきゅう)により確立されます。利休は「花は野にあるように」といって自然のままの簡素なスタイルを主張しました。

 この茶湯(ちゃのゆ)からの流れは江戸期には抛入れ(なげいれ)花と呼ばれ,寛永の頃(1624〜1644)から一般の大衆の間にも流行し始めます。気易く即興的にいけられることと大きな空間を必要としないことから,茶席だけでなく日常生活の中にも広がっていきました。

 さらにその流れは,明和から天明の頃(1764〜89)に生花(せいか)という形でひとつの完成を見ます。遠州流,源氏流,少し下って未生流(みしょうりゅう)など次々に新しい流派が誕生し,それぞれの主張のもとに生花の指導を始めます。池坊側もそういった新しい流れを無視することはできず,生花(しょうか)として様式に取り入れていきました。

 江戸時代後期には生花(せいか)がおおいに流行し,またその形式も定まっていきます。それを嫌った文人たちは,煎茶を愛好し,中国の花書『瓶史』(へいし)の影響を受けて,文人花という様式を作り出しました。

町人への立花の普及
六角堂立花会の情景。全国から門弟が集まり花を立てました。『宝永花洛細見図』巻十二

 公家の教養であった立花は,二代池坊専好の頃から富裕な町人の間にも普及し始め,門弟にも多くの町人が含まれるようになりました。池坊の拠点が,下京の町衆の中心的存在であった六角堂に置かれていたということも普及を助けました。

 慶長4(1599)年に初代専好が寺町四条下るの大雲院で開催した百瓶花会では,町人の参加は100人中4人でしたが,寛文13(1673)年に出版された『六角堂池坊并門弟立華砂之物図』では,門弟21人中半分以上の12人が町人で占められています。その背後には,床・棚を備えた民家の構造上の発達や,富商が自らの財力を示す象徴的存在として立花を取り入れたということが見受けられます。その後,池坊の門流は全国に及ぶようになります。

また,花の栽培が桃山時代以降に本格化したことも,いけばなが大きく普及した理由のひとつにあげられます。椿や菊などの品種改良も盛んに行われました。

家元制度の確立
六角堂 『都名所図会』巻一(部分)

 池坊では,二代専好の弟子に大住院以信(だいじゅういんいしん)や安立坊周玉(あんりゅうぼうしゅうぎょく),富春軒仙渓(ふしゅんけんせんけい),十一屋太右衛門(じゅういちやたえもん)などの人物があらわれ,隆盛を迎えます。特に大住院以信は江戸で大名家へ出入りし,高い評価を得ました。一時は,門弟でありながら池坊と名声を二分するほどの人気でした。

 しかしその結果,大住院以信は池坊側と,特に同じ門弟である安立坊周玉と対立し,最終的に池坊を離れることになります。その中で,池坊には一門を守らなければという危機意識が生まれ,家元制度が確立されたのです。延宝6(1678)年には永代門弟帳が作られ,階梯制のシステムが整備されました。このシステムは全国に広がり,爆発的に門弟が増加しました。文化年間(1804〜18)には6万人の門弟を数えたといわれています。

「道」としてのいけばな

 秘伝を習得しようとする求道的精神の高まりの中,「茶道」「香道」などとともに,いけばなも「道」としての性格を強めていきます。元禄元(1688)年刊行の『立華時勢粧』(りっかいまようすがた)に初めて「花道」という言葉が使われています。幕府による教化政策に儒教思想が重視されるとともに,いけばなは道義的意味合いを強めていきました。そして女性の習い事として庶民に浸透していき,次第に稽古による礼儀作法の習得が目的となっていきました。

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六角堂(頂法寺<ちょうほうじ>)・いけばな資料館 中京区六角通烏丸東入

六角堂は正式名称を頂法寺という天台宗の寺院です。本堂が六角宝形造であるため六角堂の名で親しまれています。池坊はもともと六角堂のひとつの坊でした。応仁・文明の乱後,上京の革堂(こうどう,行願寺<ぎょうがんじ>)に対する下京の町組(ちょうぐみ)代表者の集会所として中心的役割を担いました。本堂の前に埋まる円形の石は,臍石(へそいし)と呼ばれ京都の中心をあらわしているといわれています。

 いけばな資料館は,六角堂の境内に建つビルの3階に昭和51年にオープンしました。15世紀末に成立した最古の花伝書『花王以来の花伝書』や『池坊専応口伝』など,池坊に伝わる華道資料を中心に展示してあります。見学には予約が必要です。

六角堂(頂法寺)

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