七夕法楽花会と池坊の登場
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「いけばな発祥の地」石標(六角堂内)。上部の石板は『池坊専応口伝』の写し。 |
室町時代になると,三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の頃から花の御所や北山殿で,七夕法楽として仏教的行事の中で花を立てることが,盛んに行われるようになりました。朝廷でも15世紀のはじめに,伏見宮(ふしみのみや)貞成親王(さだふさしんのう)の邸宅であった伏見殿で,七夕法楽花会が数多く行われていました。花鳥の絵を掛け,屏風を立て,そこに瓶に挿した花を飾り楽しみました。この花会は仏教的行事とはいえ,花を見ながら歌を詠み酒を飲むという,かなり自由な雰囲気のものでした。花会の後に花は一般に公開したため,徐々に「見せる」ということが意識されるようになります。
花会において花を立てることは,その周囲の飾り付けを含めて,依頼を受けた専門の者が担当していました。将軍に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の立阿弥(りゅうあみ)や能阿弥(のうあみ),山科家の雑掌(ざっしょう)である大沢久守(おおさわひさもり),六角堂(頂法寺<ちょうほうじ>)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)らがそうです。中でも池坊専慶は,寛正3(1462)年に京極持清(きょうごくもちきよ)に招かれ花を立て,大変評判となりました。
彼らの登場の背景には,床の間を持つ書院造の出現にともない,その座敷飾として花を立てることの需要が高まったことがあります。その後,立花は装飾性を強めていきます。
16世紀前半には,文阿弥(もんあみ,2世)と池坊専応(いけのぼうせんのう)の二人がそれぞれ『文阿弥花伝書』『池坊専応口伝』という書を残し,立花の理論・様式の基礎を確立しました。文阿弥は青蓮院(しょうれんいん)尊鎮法親王(そんちんほっしんのう)のもとで,専応も禁中や青蓮院で,たびたび花を立てています。文阿弥(二世)と池坊専応の評判は
池の坊御前の花をさすなれば
一瓶なりとこれや学ばん
すいに花たつる文阿弥当世の
人の心にかなふなるべし
と歌に詠まれています(『多胡辰敬家訓』<たごときたかかくん>)。
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