西陣織の近代化
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ジャカード |
明治2(1869)年の東京遷都によって,西陣は高級織物の需要者層を大幅に失いました。また生糸の輸出増加にともない国内生糸の価格も高騰し,西陣は以前にもました危機を迎えました。
そこで,京都府による保護育成が計られることになり,府は明治2(1869)年に西陣物産会社を設立しました。同5年には佐倉常七(さくらつねしち)・井上伊兵衛(いのうえいへえ)・吉田忠七(よしだちゅうしち)をフランスのリヨンに留学させ,フランス式のジャカード(紋紙を使う紋織装置)やバッタン(飛杼<とびひ>装置)など数十種の織機装置を輸入しました。また,明治6(1873)年,ウイーン万国博覧会に随行した織物業者の四世伊達弥助(だてやすけ,1813〜76)は,オーストリア式のジャカードを持ち帰りました。
明治20年代にはこうした洋式技術も定着し,西陣は最新にして最大の絹織物産地となっていきます。その後も川島甚兵衛(かわしまじんべえ)や佐々木清七(ささきせいしち)らが各地の博覧会に出品受賞し,西陣織の名を高めました。
明治末には織機約2万台を有し,生産額は2000万円あまりで,全国織物総生産額の約7パーセントを占めるようになりました。こうして西陣は新しい技術を取り入れることにより,幕末から維新にかけての危機を脱出しました。
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