京都の絵師 文人画と写生画
文化史18

きょうとのえし ぶんじんがとしゃせいが
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近世後期の京都美術

 近世後期の京都画壇は,様々な絵画によって彩られますが,その中でも文人画(南画)と写生画の分野においては多くの有名画家を輩出しました。

 文人画とは,中国の士大夫(したいふ,高級官僚)が描いていた絵画のことで,様式的には南宗画(なんしゅうが)とも呼ばれていました。日本に入り,和様化したものを一般に「南画」(なんが)という名称で呼んでいます。

 写生画は,享保16(1731)年,沈南蘋(しんなんびん,生没年不詳)が長崎にもたらした清朝の写実的な画風が大きな影響を与えたと言われています。

文人画

 日本における文人画(南画)の発生は,中国の明・清時代(17世紀前半)に制作された『八種画譜』(はっしゅがふ)や『芥子園画伝』(かいしえんがでん)などの文人画の木版画譜類が輸入されたことが大きな要因に挙げられます。江戸時代後期には,京都で刊行された人名録『平安人物志』文政5(1822)年版には,画家とは別に「文人画」の項が単独で設けられており,このことからも,当時,京都で文人画家が活躍していたことがわかります。

 日本で初めて文人画に注目したのは,祇園南海(ぎおんなんかい,紀州藩儒臣,1676〜1751)や柳沢淇園(やなぎさわきえん,大和郡山藩重臣,1704〜58)といった武士の知識人で,彼らに続く当時の代表的な画家といえば,日本文人画(南画)を大成した与謝蕪村(よさぶそん,1716〜83)や池大雅(いけのたいが,1723〜76)がいます。

写生画

 京都の写生画家としては,伊藤若冲(いとうじゃくちゅう,1716〜1800)がその先駆者として注目され,この若冲よりやや遅れて登場した円山応挙(まるやまおうきょ,1733〜95)が写生画を大成したといわれています。応挙の画風は,当時の京都画壇を風靡し,門人は1000人といわれるほどでした。世に言う円山派です。

 この画風は,応挙の門人で気品高い美人画に優れた源g(げんき,1747〜97)や奇抜で奔放な作品を描いた長沢蘆雪(ながさわろせつ,1755〜99)などの応門十哲や応挙の長男である円山応瑞(おうずい,1766〜1829),次男の木下応受(きのしたおうじゅ,1777〜1815)によって継承されます。

円山派から四条派へ

 応挙を中心にした円山派の全盛時代が終わったあと,文人画家である与謝蕪村の弟子で,のちに応挙の影響を受けた呉春(ごしゅん,松村月渓<まつむらげっけい>,1752〜1811)から始まる四条派が,京都画壇を席巻するようになります。

 四条派は円山派の写生的な描写を吸収して,一つの画風をつくりあげました。その画風は,写実的描写力を徹底して深化させることはせず,適度なところで装飾性と調和させ,あわせて詩的情緒にも意を配る,穏健な作風のもので,その結果,世間の幅広い支持をとりつけました。

 この画風は,その後,呉春の弟の松村景文(まつむらけいぶん,1779〜1843)や京都郊外の風物を近代的感覚でとらえた岡本豊彦(おかもととよひこ,1773〜1845)に引き継がれ,明治以後の近代日本画のいしずえとなっていくのです。なお,京都の商家では,円山・四条派の作品が特に好まれ,現在でも多くの作品が残されています。

 また,この京都の写生画派である円山・四条派(総称して京派とも呼ばれた)に次いで名をひろめた画系に岸駒(がんく,1749?〜1838)の岸派や原在中(はらざいちゅう,1750〜1837)に始まる原派があり,その他にも円山派全盛期時代に特異な作風で人々の目を驚かせた画家に曾我蕭白(そがしょうはく,1730〜81)がいました。

内裏(京都御所)の障壁画

 江戸時代,火災などにより内裏は焼失再建を繰り返しました。その度に描かれた内裏の障壁画は,幕府の御用絵師である狩野派が中心となってすすめられ,狩野派・土佐派がその絵のほとんどを独占していました。

 しかし,寛政2(1790)年に行われた内裏再建の際には,狩野派や土佐派だけでなく円山応挙や岸駒,原在中などの写生画の絵師も障壁画の制作に加わっています。

 現在,京都御所で見られる障壁画は,安政2(1855)年の内裏再建時に制作されたものですが,この障壁画制作にあたっても円山派や四条派,岸派,原派の絵師が多数参加しています。

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池大雅(いけのたいが,1723〜76)

 大雅は,京都の銀座下役の子として生まれました。若いころから書画篆刻(てんこく)が上手で,木版画譜や中国より輸入された絵画を通じて文人画を独学し,宇治の万福寺に出入りして黄檗風の墨画も学びました。ちょうどこの頃,南海や淇園に出会い文人画の研鑽を積みます。

 大雅は,日本文人画(南画)を単なる中国画の亜流にとどめることなく,琳派・大和絵など日本の伝統的な画風や西洋画などを摂取することによって,独自の斬新な絵画様式を完成します。

 墓所は上京区寺之内通千本東入の浄光寺にあり,西京区松尾万石町にある池大雅美術館には遺墨・遺品などが展示されています。

与謝蕪村(よさぶそん,1716〜83)
野村文華財団蔵 与謝蕪村筆「草廬三顧・蕭何追韓信図屏風」左隻の一部

 蕪村は俳人として有名ですが,池大雅と並ぶ文人画家としても知られています。蕪村は現在の大阪市都島区毛馬町(けまちょう)で生まれ,20歳頃に江戸に出て早野巴人(はやのはじん,夜半亭宋阿<やはんていそうあ>)に俳句を学び,巴人没後は下総国を中心に放浪生活を送り,宝暦元(1751)年,京都に移住します。

 画風は文人画に日本的自然観を加味したもので,色彩もやわらかく,晩年,謝寅の号を用いて以後,傑作を多く制作しており,代表作には,「野馬図屏風」(やばずびょうぶ,京都国立博物館蔵)などの作品があります。

 蕪村は晩年に松尾芭蕉を偲んで左京区一乗寺の金福寺に茶室芭蕉庵を再興しており,蕪村の墓所もこの寺にあります。

伊藤若冲(じゃくちゅう,1716〜1800)

 若冲は,京都錦小路の青物問屋の家に生まれた町人画家です。彼は老舗の商家の主人でしたが,趣味として習った絵画に没頭し,ついには家を弟に譲って専門画家となってしまいます。はじめ狩野派に学びましたが,写生の重要性を痛感した若冲は,実際に自宅の庭に数十羽の鶏を飼って,そのあらゆる形状を写しとる修練を積んだといわれています。

 こうして若冲は写生的な花鳥画へと深く傾斜していき,特に鶏図を得意としました。代表作には金閣寺の大書院障壁画(重要文化財)などがあり,この障壁画の一部は相国寺承天閣美術館(上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町)で見ることができます。晩年,若冲は伏見区深草石峰寺(せきほうじ)の門前に住したため,墓所は相国寺と石峰寺にあります。

円山応挙(まるやまおうきょ,1733〜95)
神戸市立博物館蔵 円山応挙筆「三十三間堂通し矢図」(直視式眼鏡絵)

 応挙は,丹波国の農家に生まれ,少年期に上京して石田幽汀(いしだゆうてい,1721〜86)に師事しました。幽汀は鶴沢探鯨(つるさわたんげい,探山の子)の門人でしたが,その幽汀のもとで江戸狩野派の正統的な画法を修得したのちに,当時流行しはじめたばかりの写実的な西洋画法を眼鏡絵の制作を通して知る一方,中国宋元時代の院体花鳥画にも影響を受けています。

 「絵は応挙の世に出て写生ということのはやり出て,京中の絵が皆一手になつたことじや」(上田秋成『胆大小心録』<たんだいしょうしんろく>)といわれるように,上方を中心に多くの支持者を獲得し,門弟を多数集めた応挙は,写生画の普及に力を尽くしました。

 左京区一乗寺小谷町の円光寺に残されている「雨竹風竹図屏風」などが重要文化財に指定されており,墓所は右京区太秦東蜂岡町の悟真寺(ごしんじ)にあります。

長沢蘆雪(ろせつ,1755〜99)

 蘆雪は,一寸(約3センチメートル)四方の小画面に五百羅漢とその眷属を超細密に描き込んでみせたかと思えば,顕微鏡で見た虫の図を屏風一面に拡大して描くなど,日常的な視覚の粋をはるかに超える大胆な造形を試みています。

 しかし,そうした人の意表をつく奇巧には少しの暗さもなく,常にユーモアをたたえた明るさがあるのは,蘆雪画の特徴であり,応挙の代理で南紀へ下向した際,多くの作品をその地に残しています。

 さらに晩年に描いた水墨画には,月光など光線への関心を深めた抒情的な作風のものもあり,生新な魅力が感じられます。墓所は上京区御前通一条下るの回向院にあります。

呉春(ごしゅん,1752〜1811)

 呉春は京都金座の年寄役松村家の子として生まれた京都町人で,はじめ与謝蕪村について俳諧とともに絵を学びました。月渓の画名で文人画(南画)を描いていた彼は,大坂郊外呉服里(くれはのさと,現大阪府池田市)に滞在中の天明2(1782)年の春,姓を呉,名を春と中国風に改称,翌年に蕪村が没して以後は応挙に接近して,その写生画風に感化されていきます。師の蕪村から受け継いだ俳諧的詩情を応挙ゆずりの平明な写生画風により表現する彼の軽妙で洒脱な画風は,洗練された趣味生活を楽しもうとする市民層に親しく歓迎されました。

 集まる弟子も数多く,呉春はもとより門下生の多くが京都の四条通り界隈に集中して住んでいたため,一門は四条派の通称で呼ばれました。代表作に「白梅図屏風」(逸翁美術館蔵,重要文化財)があり,墓所は師である蕪村と同じ金福寺にあります。

岸駒(がんく,1749?〜1838)

 岸駒は金沢の人で,青年時代,紺屋に奉公をしており,天明の初めごろ上京して絵を学び,しだいに名をあげてきたと言われています。その後,有栖川宮の近侍となり,雅楽助(うたのすけ)の称が与えられ,以後,従五位下に叙せられて,越前守に任ぜられました。沈南蘋の影響を強く受けた岸駒は,岸派を起こし,寛政2(1790)年の内裏造営にあたり障壁画を描いています。平明な円山四条の絵を好む京都町人には,岸駒の「剛健な筆意」はあまりよろこばれず,地方において歓迎されたようです。

 また,岸駒の傲岸なふるまいは京都の人びとの目をおどろかせ,画料の高いことでも有名でした。上田秋成は岸駒のことを山師のような男だと批評しています。墓所は上京区寺町通広小路上るの本禅寺にあります。

原在中(はらざいちゅう,1750〜1837)

 在中は円山応挙の影響を受け,写生を基調に土佐派が描く大和絵の技法と装飾を加えて独自の画風をたて,原派を起こしました。

 彼は山水画や花鳥画を得意とし,作品には障壁画も多く,相国寺(上京区)・建仁寺(東山区)・三玄院(北区の大徳寺塔頭)などに残されています。応挙や岸駒とともに内裏造営の際には障壁画の制作にも携わりました。墓所は中京区寺町通三条上るの天性寺(てんしょうじ)にあります。

曾我蕭白(そがしょうはく,1730〜81)

 若冲や蘆雪とならんで,同じころに異色の画風で世間を驚かせた画家に,室町時代の絵師「曾我蛇足」(だそく)の十世を自称する曾我蕭白がいます。彼は「画を望まば我に乞うべし,絵図を求めんとならば円山主水(応挙)よかるべし」と広言して,応挙の穏健な写生画を非難しており,奇矯で反俗的な激しい性格は「群仙図屏風」(文化庁蔵)など奇怪な相貌を備えた人物画などにそのまま反映しています。

 青壮年期に遊歴した松阪には,障壁画をはじめとする名作がなお多く伝存しています。墓所は上京区堀川通寺之内上るの興聖寺(こうしょうじ)にあります。


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