前祭(さきのまつり,平成15年 巡行順)
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現在の山鉾の配置
地図中の番号は,各山鉾の説明文にある所在地の下に付けた番号と符合します。
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長刀鉾(なぎなたぼこ)(四条烏丸東入長刀鉾町 1) 嘉吉元(1441)年頃の創建とも,それより古いともいわれ,鉾頭(ほこがしら)に三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)作の長刀を立てたので長刀鉾と呼ばれています。この長刀は,のち大永2(1522)年に三条長吉(さんじょうながよし)作のものと取り替え,更に延宝3(1675)年には和泉守来金道(らいきんみち/かねみち)作のものとなり,現在では竹に錫箔を張ったものを使用しています。毎年必ず巡行の先頭にたち,小学生から選ばれた稚児(ちご)が2人の禿(かむろ)と共に乗るのも,今ではこの鉾だけです。
霰天神山(あられてんじんやま)(錦小路通室町西入天神山町 2) 永正年間(1504〜21)京都大火の際,猛火を消した霰と共に降ってきた天神像を祀ったのがこの山の起こりと伝えられています。山の縁起にちなんで宵山には「火防せ(ひぶせ),雷除け」の御守が授与されます。
郭巨山(かっきょやま)(四条通西洞院東入郭巨山町 3) 中国の説話二十四孝の一人,郭巨の釜掘りの故事にちなんで製作されました。御神体(人形)は郭巨とその子供,「釜掘り山」とも呼ばれています。また,この山に限って屋根覆いをかけています。
山伏山(やまぶしやま)(室町通蛸薬師下る山伏山町 4) この山は,御神体(人形)が山伏の姿をしており,平安前期の碩学三善清行(みよしのきよゆき)の第八子である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)の大峯入りの姿をあらわしています。
函谷鉾(かんこぼこ)(四条烏丸西入函谷鉾町 5) 鉾の名は,中国戦国時代(前403〜前221)斉(せい)の孟嘗君(もうしょうくん)が食客に鶏の声をまねさせて函谷関(かんこくかん)を脱出できた故事にちなんで付けられました。鉾頭(ほこがしら)の月と山型は山中の闇をあらわしています。天保10(1839)年復興の際,鉾では初めて稚児人形(嘉多丸)を用いました。前懸(まえがけ)は旧約聖書の創世記を描いたタペストリー(16世紀末,重要文化財)です。
占出山(うらでやま)(錦小路通室町東入占出山町 6) 山の由来は,神功皇后(じんぐうこうごう)が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆とした説話によります。御神体(人形)の神功皇后は,古来よりお産に奇瑞があるとされ,神像にたくさんの晒(さらし)をまき,これは,巡行終了後,安産のお守りとして妊婦に授与されます。「鮎釣山」とも呼ばれています。
四条傘鉾(しじょうかさぼこ)(四条通西洞院西入傘鉾町 7) 四条傘鉾は,織物の垂れなどをつけた傘と棒振り囃子(ぼうふりはやし)が巡行する古い形態の鉾で,応仁の乱以前に起源を持ち,傘の上には御幣と若松を飾ります。昭和60年に鉾本体が復元され,踊りと囃子が復興された同63年から32番目の山鉾として巡行するようになりました。
孟宗山(もうそうやま)(烏丸通錦小路下る笋町 8) 山に飾る御神体(人形)は,中国の説話二十四孝の一人である孟宗の雪中に筍を得た話を題材としており,「筍山」とも呼ばれています。見送(みおくり)は,昭和15(1940)年より竹内栖鳳(たけうちせいほう)筆の「孟宗竹図(墨画)」を用いています。
月鉾(つきぼこ)(四条新町東入月鉾町 9) 鉾頭(ほこがしら)に三日月をつけているのでこの名で呼ばれ,真木(しんぎ)のなかほどの天王台(てんのうだい)には月読尊(つくよみのみこと)を祀ります。屋根裏の金地彩色草花図は円山応挙(まるやまおうきょ)の筆で,破風蟇股(はふかえるまた)の彫刻は左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝えられています。
油天神山(あぶらてんじんやま)(油小路通仏光寺上る風早町 10) 古くから町内の祠に祀っていた天神を勧請して作られた山で,正面には朱の鳥居が立っています。社殿の中に天神像を安置し,真木(しんぎ)には松の他に紅梅の枝などを飾っています。
太子山(たいしやま)(油小路通仏光寺下る太子山町 11) 四天王寺建立にあたり,聖徳太子が自ら山中に入って良材を求めたという所伝にもとづいて作られた山で,御神体(人形)に聖徳太子を祀ります。他の山がいずれも松を立てるのに対して,この山のみ杉を立てます。
保昌山(ほうしょうやま)(東洞院通松原上る燈籠町 12) 丹後守(たんごのかみ)平井保昌(やすまさ)と和泉式部の恋物語を題材に,保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折(たお)ってくる姿をあらわしています。御神体(人形)の保昌は緋縅(ひおどし)の鎧に太刀をはき,紅梅を一杯に盛った梨地蒔絵(なしじまきえ)の台を捧げています。
鶏鉾(にわとりぼこ)(室町通四条下る鶏鉾町 13) 鉾名は天の岩戸の常世の長鳴鳥にちなむとも,中国の故事によるともいわれています。鉾頭(ほこがしら)は三角形の中に円形の鶏卵を形取ったもので,見送(みおくり)は16世紀末のベルギー製のタペストリー(重要文化財)です。
白楽天山(はくらくてんやま)(室町通仏光寺上る白楽天町 14) この山は唐の詩人白楽天が道林禅師(どうりんぜんじ)に仏法の大意を問うところを題材にしてつくられました。この山は松の木が重要な道具立ての一つなので特に壮大な真松が立てられています。
綾傘鉾(あやがさぼこ)(綾小路通室町西入善長寺町 15) 古い鉾の形態を残している傘鉾の一つで,金鶏が留まっている大きな傘と棒振り囃子の行列が昭和54年から巡行しています。棒振り囃子は,赤熊(しゃぐま)をかぶり,棒を持った者が,鉦,太鼓,笛に合わせて踊るもので,壬生六斎会の人々により奉仕されています。
木賊山(とくさやま)(仏光寺通油小路東入木賊山町 16) 世阿弥の作といわれる謡曲「木賊」が題材。御神体(人形)は,物語に出てくる我が子を人にさらわれて一人信濃国園原(現長野県下伊那郡阿智村)で木賊(砥草)を刈る翁で,腰に箕をつけ左手に木賊,右手に鎌を持っています。
菊水鉾(きくすいぼこ)(室町通四条上る菊水鉾町 17) 町内に古くからあった井戸,菊水井にちなんで名付けられ,鉾頭には金色の菊花をつけています。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保った枕慈童(まくらじどう)。元治元(1864)年,蛤御門の変で焼失したこの鉾は,昭和28年には白木のままながら巡行に参加,装飾品は三輪晁勢(みわちょうせい)や皆川月華(みながわげっか)など昭和の匠たちの協力を得て新調され,その後も年々装飾が充実してきています。
芦刈山(あしかりやま)(綾小路通西洞院西入芦刈山町 18) 謡曲「芦刈」を題材に,妻に去られて一人淋しく難波の浦で芦を刈る老翁の姿をあらわしています。御神体(人形)の古衣装として,天正銘の綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(あやじしめきりちょうぼたんもんかたみかわりこそで)があり,山鉾最古の衣装として,重要文化財に指定されています。
伯牙山(はくがやま)(綾小路通新町西入矢田町 19) 「琴破山」(ことわりやま)ともいわれ,中国の周時代,琴の名人伯牙が友人である鍾子期(しょうしき)の死を聞いてその琴の絃を断ったという故事をあらわしています。
蟷螂山(とうろうやま)(西洞院通四条上る蟷螂山町 20) 「蟷螂の斧を以って降軍の隧(わだち)を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんだ山で,別名「かまきり山」。その起源は,南北朝時代,当町在住の四条隆資の武勇ぶりが蟷螂に似ていることから,四条家の御所車に蟷螂を乗せて巡行したのに始まるといわれています。昭和56年,約100年ぶりに再興され巡行に加わりました。山鉾中唯一からくり仕掛けが見られます。
放下鉾(ほうかぼこ)(新町通四条上る小結棚町 21) 鉾の名は,真木(しんぎ)のなかほどの天王台(てんのうだい)に放下僧(小切子<こきりこ>を打ちながら歌舞・手品・曲芸などの大道芸を行う僧)の像を祀ることに由来します。鉾頭(ほこがしら)は日・月・星三光が下界を照らす形を示し,その形が洲浜に似ているため別名「すはま鉾」とも呼ばれています。
岩戸山(いわとやま)(新町通高辻上る岩戸山町 22) 山名は天岩戸を開いて天照大神を出現させる日本神話に由来します。山とはいえ鉾と同様の形態であり,「曳山」(ひきやま)と呼ばれています。鉾柱のかわりに屋根の上に松を立てています。
船鉾(ふねぼこ)(新町通綾小路下る船鉾町 23) 神功皇后(じんぐうこうごう)の説話により鉾全体を船型にし,舳先(へさき)には金色の鷁(げき),艫(とも)には黒漆塗螺鈿(くろうるしぬりらでん)の飛龍文の舵をつけています。占出山と同様に,神像にはたくさんの岩田帯がまかれ,その帯は安産のお守りとして妊婦に授与されます。
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