京都の焼物 粟田焼と清水焼
文化史20

きょうとのやきもの あわたやきときよみずやき
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京都で産する陶器

 京都で製作される陶器は,天平年間(729〜49)に行基(ぎょうき,668〜749)が東山の清閑寺(せいかんじ)に窯を築いたのにはじまると伝えられています。

 江戸時代初期より本格的な作陶がはじまり,三文字屋九右衛門が開いた粟田口焼(あわたぐちやき)が粟田焼の起源といわれ,その後,東山一帯の音羽・清閑寺・清水(きよみず)などに築かれた窯は清水焼の起源となりました。

色絵陶器の大成と御室焼
古清水 六角段重
(京都府立総合資料館蔵・京都文化博物館管理)

 粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(かなもりそうわ,1584〜1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年未詳)によって大きく開花します。

 仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。

 その後,寛永期(1624〜44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。

町売りと乾山焼(けんざんやき)

 それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658〜61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(おがたけんざん,1663〜1743)の出現によって画期をむかえることとなります。

 乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。

 しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。

焼物仲間の形成と焼物の大衆化
洛東の焼物商(『都名所図会』巻三)

 町売りが主流となりつつあった明和年間(1764〜72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。

 これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。

 そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。

磁器の開発

 江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804〜30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(おくだえいせん,1753〜1811)です。

 頴川の門人には青木木米(あおきもくべい)を筆頭に仁阿弥道八(にんあみどうはち),青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(きんこどうきすけ,1765〜1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。

 しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。

明治期の京都の焼物

 幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ,1824〜84)によって制作された「京薩摩」(きょうさつま)が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。

 一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛(きよみずろくべえ)など多くの陶芸家を輩出しました。

 第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。

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粟田焼発祥地碑 東山区粟田口鍛冶町(粟田神社参道)
粟田焼発祥地

 粟田焼は洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は粟田口焼という名称でしたが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになりました。

 寛永元(1624)年,三条蹴上今道町に住む瀬戸の陶工三文字屋九右衛門(さんもじやきゅうえもん)が,東山区東山五条付近で産出する遊行土や左京区岡崎天王町および粟田口付近で産出する岡崎土を用いて銹絵・染付陶器を生産したことが粟田口焼のはじまりで,江戸初期以降,青蓮院(しょうれんいん,東山区粟田口三条坊町)の保護のもと発展します。

 明治3(1870)年には,近代の粟田焼を代表する,薩摩焼色絵の作風を取り入れた「京薩摩」の彩画法が開発され,以後,輸出の黄金時代を向かえますが,のちに貿易不振となり,昭和45年三代目伊東陶山(いとうとうざん),昭和59年楠部彌弌(くすべやいち)の死去により粟田焼は衰退することになります。

清水焼発祥地碑 東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮前)
清水焼発祥地

 清水焼は東山の清水坂・五条坂近辺で焼かれた陶磁器の総称で,一説には宝徳期(1449〜52)に音羽屋九郎右衛門(おとわやくろうえもん)が清閑寺(せいかんじ,東山区清閑寺山ノ内町)の近くに開窯した音羽焼が起源であるといわれています。音羽焼は清閑寺の庇護を受け発展しましたが,慶長(1596〜1615)末に阿弥陀ヶ峰の豊国廟に煙がかかるため,命により清水寺近辺へと窯を移転し,その後,この辺りには清水・五条・八坂焼なども開窯されました。

 粟田焼が高級陶器を中心に生産したのに対して,日常雑器類の生産を主として発展し,文政年間(1818〜30)以降,磁器の生産も始めました。陶家として清水六兵衛(きよみずろくべえ)・高橋道八(たかはしどうはち)家などが挙げられ,粟田焼が衰退して以降,京都で産する陶磁器の代表的な名称となりました。

野々村仁清(ののむらにんせい)窯跡 右京区御室竪町

 野々村仁清は丹波国北桑田郡野々村(京都府美山町)出身と伝えられている陶芸家で,名は清右衛門といい,京の粟田口や瀬戸で陶芸を修行した後,茶匠金森宗和の指導を受け,宗和好みの斬新で洒落た作風の茶器を作りました。

 正保年間(1644〜48),御室仁和寺門前に開窯して「御室焼」(仁和寺焼)を作成,轆轤(ろくろ)成形と色絵付に卓越した才能を発揮し,後水尾上皇をはじめ多くの公家や大名などに好まれました。

 この石標は仁清の窯跡を示すもので,清水寺(東山区清水一丁目)には作陶を記念した石碑が建てられています。

尾形乾山(おがたけんざん)陶窯跡 右京区鳴滝泉谷町(法蔵寺前)

 尾形乾山は,京都の呉服商雁金屋(かりがねや)三代目尾形宗謙(おがたそうけん)の次男として生まれました。兄は有名な尾形光琳(おがたこうりん,1658〜1716)です。

 清閑を愛し隠逸を好んだ人物で,姻戚にあたる本阿弥光悦(ほんあみこうえつ,1558〜1637)の孫空中斎光甫(くうちゅうさいこうほ)より焼物の手ほどきを受け,元禄2(1689)年,御室に幽居を構えて習静堂と称しました。その後,近隣の野々村仁清に陶技を学び,同12(1699)年,鳴滝村(右京区鳴滝泉谷町)に開窯,この窯が京都の乾の方角にあたるため,号を乾山としたと伝えられています。作品には,兄光琳の絵付による合作など,清新な意匠の色絵の傑作が数多く残っています。

 この石碑は乾山の窯跡を示すもので,宅跡の石碑と並び建っており,他に清水寺にも石碑が建てられています。

奥田頴川(おくだえいせん)宅跡 東山区大黒町通五条上る東側

 奥田頴川(1753〜1811)は,本名を頴川庸徳(えがわつねのり)といい,叔父の営む五条坂大国町の質商丸屋の養子となり,30代まで家業を営みますが,作陶を志して清水の陶工海老屋清兵衛(えびやせいべえ)に学び,建仁寺内に開窯しました。

 天明年間(1781〜89)に京焼最初の磁器焼成に成功,古赤絵や染付・交趾(こうち)などの色釉磁器を焼きました。中でも呉須(ごす)赤絵は,中国明代の赤絵の模倣の域を脱した独自の作風が見られ有名です。門下から名工を出し,江戸後期の京都焼物界の全盛期を築きました。

青木木米(あおきもくべい)宅跡 東山区大和大路通四条上る西側(白川畔)
青木木米宅跡

 青木木米(1767〜1833)は,祇園新地縄手町の茶屋「木屋」に生まれ,通称木屋佐兵衛(佐平)と名乗り,晩年に聴覚を失ったため聾米(ろうべい)とも称しました。

 学問を好み,幼時から儒学を高芙蓉(こうふよう)に学びますが,29歳で朱笠亭(しゅりゅうてい)の『陶説』を読み,刺激を受けて作陶を志します。奥田頴川に入門し,煎茶器を主体に独自の作風を確立,文人陶工として名を成しました。

 文化2(1805)年,青蓮院宮粟田口御所の御用焼物師となり,仁阿弥道八(にんあみどうはち)・永楽保全(えいらくほぜん,1795〜1854)とともに幕末の京都焼物界の三名工といわれました。色絵・青磁などに佳品を残し,頼山陽(らいさんよう)や田能村竹田(たのむらちくでん)らとも親交がありました。

仁阿弥道八(にんあみどうはち)宅跡 東山区五条通東大路西入南側
仁阿弥道八宅跡

 初代高橋道八(たかはしどうはち,?〜1804)は,伊勢亀山藩士の家に生まれましたが,宝暦年間(1751〜64)に粟田に出て作陶を始めます。以後代々高橋道八を名乗り,現在の当主は八代目にあたります。

 歴代の中でも初代道八の次男である仁阿弥道八(二代目,1783〜1855)が有名で,奥田頴川に陶技を学んだ彼は,文化8(1811)年,粟田口から五条坂に移転,文政9(1826)年に仁和寺宮から「仁」の字を,醍醐三宝院門跡より「阿弥」号を下賜され,それ以後,仁阿弥と称するようになります。

 家業では染付磁器で名声を博しますが,自らは茶の湯趣味を基調とした琳派風の色絵・唐物などを制作,ことに本阿弥光悦や尾形乾山らの作風を得意としました。仁阿弥道八の弟尾形周平(おがたしゅうへい)も陶芸家として有名です。

五条坂 陶器まつり 東山区五条坂付近

 8月の7日から10日まで行われるこのまつりでは,五条通の東大路から五条橋東詰の間に約500軒の露店がならび,多彩なイベントが繰り広げられます。地元清水の窯元,問屋,小売店そして作陶家とともに,瀬戸や信楽(しがらき),多治見(たじみ)など全国の陶器業者が店を連ね,京都の夏の風物詩になっています。


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