桂離宮 西京区桂御園
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桂離宮 平面図 |
八条宮家(後の桂宮家)の別荘として造営された桂離宮は,『源氏物語』松風の巻にみえる「桂殿」のモデルになったと伝えられる藤原道長(ふじわらのみちなが)の桂山荘の故地で,藤原師実(もろざね)・忠通(ただみち)なども別荘を構えました。
桂離宮は,八条宮家初代智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王により,約50年,3次にわたる造営と改修を経て成立しています。第1次の造営は,元和元(1615)年頃,智仁親王がこの地に「瓜畠(うりばたけ)のかろき茶屋」と称する簡素な建物を営んだのがはじまりで,これが古書院の原形をなし,寛永元(1624)年頃,作庭も含めて一応の完成をみました。
同6(1629)年,智仁親王の死によって茶屋などは急速に荒廃しましたが,同18(1641)年,智仁親王の息子である智忠親王が第2次の造営を開始し,従来の古書院に接続して中書院を増築し,庭園には5カ所の茶屋を設置しました。
その後,明暦4(1658)年と寛文3(1663)年の後水尾上皇の御幸に際し第3次造営を行い,中書院南側の楽器の間・新御殿の建設とともに,庭園を大幅に整備し,第2次造営の際の5カ所の茶屋を廃し,松琴亭(しょうきんてい)・月波楼(げっぱろう)・賞花亭(しょうかてい)・園林堂(おんりんどう)を設営しました。明治16(1883)年には,建物を宮内省に移管して離宮と称するようになります。現在,桂川の流れを引いた大池の西に,東より古書院・中書院・楽器の間・新御殿が並んで建っています。
桂離宮の建物と庭園の融合調和は,ドイツ人建築家のブルーノ・タウトが戦前に記した『日本美の再発見』(岩波新書)によってその美しさが世界に紹介されました。昭和51年から同57年にかけて,解体大修理が行われました。
松琴亭(しょうきんてい) 池の東岸に建つ茶屋で,入母屋造(いりもやづくり)茅葺(かやぶき)の屋根をもつ一の間・二の間,柿葺(こけらぶき)屋根の茶室などによって構成され,中央に坪庭を設けたロの字形の建物です。いたるところに変化に富む意匠が見られ,特に一の間北側の深い土庇(つちびさし),その下に張り出した板縁に設けられた竈構え(くどがまえ),一の間南側の床・袋棚など,独創的な構想で造営されています。
月波楼(げっぱろう) 古書院の北の小高くなったところに建つ茶屋で,寄棟造(よせむねづくり)柿葺,一の間・中の間・口の間の三室と竈構えをもつ板敷からなり,これらがコの字形に配列されて入り口となる土間庇を囲んでいます。簡素・軽快な構造で,一の間に竹の竿縁天井(さおぶちてんじょう)を張るほかはすべて化粧屋根裏をみせており,竹の垂木と小舞,丸太・面皮材・皮付の曲木(まげき)を自由に組み合わせた軸組など,定型にとらわれない奔放な構想力を駆使しています。全体としてきわめて開放的で,中から庭園の景観を楽しむために,部屋の配置や開口部に細心の工夫が施されています。
賞花亭(しょうかてい) 賞花亭は,中島山上に建つ峠の茶屋といった風情で,切妻造(きりづまづくり)茅葺,間口二間・奥行一間半の小規模な建物であり,洛中の八条宮本邸にあった茶屋「竜田屋」を移建したものと推定されます。正面の壁面には竹の粗い連子窓(れんじまど)が開けられ,その左右の袖壁には下地窓(したじまど)がつくられています。この連子窓と下地窓の配分や形の比例のよさは見事です。また,この茶屋からは離宮殿舎の全景が眺望できます。
園林堂(おんりんどう) 園林堂は,智忠親王の代に造立された賞花亭の西側にある宝形造(ほうぎょうづくり)本瓦葺の建物で,屋根に唐破風(からはふ)の向拝(ごはい)をつけた,方三間の仏堂です。桂離宮にある建物の中で唯一この小堂だけが本瓦葺で,堂内には観音像のほか宮家代々の位牌と画像を安置し,傍らに細川幽斎の画像が祀られています。
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