桂離宮と修学院離宮
文化史11

かつらりきゅうとしゅうがくいんりきゅう
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京都の離宮

 離宮とは,皇居以外に設けられた宮殿のことで,東京では赤坂離宮や芝離宮が迎賓館や旧芝離宮恩賜公園に姿を変えて今にその面影を残しています。京都に現在残っている離宮は,西京区にある桂離宮と左京区にある修学院離宮の2つです。

 京都の離宮は江戸時代には「山荘」や「別業」「茶屋」などと呼ばれていましたが,明治維新以後,岩倉具視(いわくらともみ,1825〜83)が発案した京都保存政策の一環として,建物が宮内省の管轄下に置かれ,離宮という名称が正式に使用されるようになりました。ちなみに,二条城も明治16(1883)年頃には「二条離宮」と称し,保存の対象となっていました。

 桂離宮は後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の異母弟である八条宮智仁親王(としひとしんのう,1579〜1629)とその息子の智忠親王(としただしんのう,1619〜62)によって,修学院離宮は後水尾上皇(ごみずのおじょうこう,1596〜1680)によって造営されました。

王朝文化へのあこがれ

 桂離宮・修学院離宮の造営がはじめられた慶長から寛永の時期(16世紀末〜17世紀前半),京都では,公家や上層町衆を中心に,絢爛豪華な桃山美術とは趣を異にする,平安時代の貴族が好んだ王朝文化に関心が高まりました。

 池に浮かべた船上で和歌を詠み,管弦をかなで,酒宴を設けるといった,『源氏物語』などで描かれる王朝文化的な生活にとって,郊外の山や川に臨んだ場所に造営された両離宮は,まさに理想的な場所でした。そのため,いずれの離宮も王朝文化を実践するため,数寄屋造(すきやづくり)の建物群のまわりには意匠を凝らした茶屋を配し,船遊びなどができる広大な苑池を造営しています。

八条宮智仁親王(としひとしんのう) 桂離宮の創始者
東側から見た桂離宮の模型(京都文化博物館蔵)

 八条宮智仁親王(1579〜1629)は,正親町天皇(おおぎまちてんのう)の第一皇子陽光院誠仁親王(さねひとしんのう)の第6子として,天正7(1579)年に誕生しました。勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)の娘晴子(はるこ,新上東門院)を母とし,幼名を胡佐麻呂(こさまろ,胡佐麿)と称しました。智仁親王は天正16(1588)年,豊臣秀吉の猶子(ゆうし)となり,豊臣家の継承者として期待されますが,翌17年に側室淀君に男子鶴松が生まれたために解消,同18年八条宮家を創設し,翌年には親王宣下を受けて智仁と名乗り,式部卿に任ぜられました。

 その後,豊臣政権の庇護を受けて皇位についた後陽成天皇は,秀吉の死後,慶長3(1598)年10月,突然,天皇の弟にあたる智仁親王への譲位の意を表明します。しかし,この譲位の儀は中止となります。

 智仁親王は幼少から学才にすぐれ,早くから細川幽斎(ほそかわゆうさい,1534〜1610)に歌道を学んでいましたが,譲位の一件以後は,『万葉集』『古今集』『源氏物語』など古典文芸へ深く没頭するようになり,慶長5(1600)年には,22歳で幽斎より古今伝授(こきんでんじゅ)を受け,名実共に当代を代表する宮廷文化人に成長しました。その後,親王は桂離宮造営に着手します。

後水尾上皇 修学院離宮の造営者

 後水尾上皇(1596〜1680)は,後陽成天皇の第三皇子として慶長元(1596)年に誕生しました。名は政仁(ことひと)といい,生母は前関白(さきのかんぱく)近衛前久の娘前子(さきこ,中和門院)です。

 はじめ,後陽成天皇は,弟の八条宮智仁親王に譲位する意向でしたが,前関白九条兼孝(くじょうかねたか)と内大臣(ないだいじん)徳川家康の反対があり,実現されませんでした。その後,東宮(とうぐう,皇太子)となった政仁親王が慶長16(1611)年に即位します。

 譲位の時期も政仁親王への皇位継承も,後陽成天皇の意に反するものでしたが,徳川家康の強引な干渉によって実現しました。この政仁親王は徳川政権のもとで即位した最初の天皇で,その即位は幕府による朝廷支配の第一歩でした。元和6(1620)年には徳川秀忠の娘和子(まさこ・かずこ,後の東福門院<とうふくもんいん>,1607〜78)を女御として入内させ,寛永3(1626)年には二条城行幸が盛大に行われ,朝幕関係は好転するように見えました。

 しかし,その翌年,禅僧に紫衣(しえ)着用を許す天皇の綸旨が幕府によって無効となった「紫衣事件」を契機として,寛永6年,にわかに女一宮(おんないちのみや)興子(おきこ)内親王(明正天皇)へと譲位します。

 上皇となった後は,当時の文化人の中心的存在となり,修学院に山荘を造営,庭内に窯(修学院焼<しゅがくいんやき>)を開きました。

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桂離宮 西京区桂御園
桂離宮 平面図

 八条宮家(後の桂宮家)の別荘として造営された桂離宮は,『源氏物語』松風の巻にみえる「桂殿」のモデルになったと伝えられる藤原道長(ふじわらのみちなが)の桂山荘の故地で,藤原師実(もろざね)・忠通(ただみち)なども別荘を構えました。

 桂離宮は,八条宮家初代智仁(としひと)親王と二代智忠(としただ)親王により,約50年,3次にわたる造営と改修を経て成立しています。第1次の造営は,元和元(1615)年頃,智仁親王がこの地に「瓜畠(うりばたけ)のかろき茶屋」と称する簡素な建物を営んだのがはじまりで,これが古書院の原形をなし,寛永元(1624)年頃,作庭も含めて一応の完成をみました。

 同6(1629)年,智仁親王の死によって茶屋などは急速に荒廃しましたが,同18(1641)年,智仁親王の息子である智忠親王が第2次の造営を開始し,従来の古書院に接続して中書院を増築し,庭園には5カ所の茶屋を設置しました。

 その後,明暦4(1658)年と寛文3(1663)年の後水尾上皇の御幸に際し第3次造営を行い,中書院南側の楽器の間・新御殿の建設とともに,庭園を大幅に整備し,第2次造営の際の5カ所の茶屋を廃し,松琴亭(しょうきんてい)・月波楼(げっぱろう)・賞花亭(しょうかてい)・園林堂(おんりんどう)を設営しました。明治16(1883)年には,建物を宮内省に移管して離宮と称するようになります。現在,桂川の流れを引いた大池の西に,東より古書院・中書院・楽器の間・新御殿が並んで建っています。

 桂離宮の建物と庭園の融合調和は,ドイツ人建築家のブルーノ・タウトが戦前に記した『日本美の再発見』(岩波新書)によってその美しさが世界に紹介されました。昭和51年から同57年にかけて,解体大修理が行われました。

 松琴亭(しょうきんてい) 池の東岸に建つ茶屋で,入母屋造(いりもやづくり)茅葺(かやぶき)の屋根をもつ一の間・二の間,柿葺(こけらぶき)屋根の茶室などによって構成され,中央に坪庭を設けたロの字形の建物です。いたるところに変化に富む意匠が見られ,特に一の間北側の深い土庇(つちびさし),その下に張り出した板縁に設けられた竈構え(くどがまえ),一の間南側の床・袋棚など,独創的な構想で造営されています。

 月波楼(げっぱろう) 古書院の北の小高くなったところに建つ茶屋で,寄棟造(よせむねづくり)柿葺,一の間・中の間・口の間の三室と竈構えをもつ板敷からなり,これらがコの字形に配列されて入り口となる土間庇を囲んでいます。簡素・軽快な構造で,一の間に竹の竿縁天井(さおぶちてんじょう)を張るほかはすべて化粧屋根裏をみせており,竹の垂木と小舞,丸太・面皮材・皮付の曲木(まげき)を自由に組み合わせた軸組など,定型にとらわれない奔放な構想力を駆使しています。全体としてきわめて開放的で,中から庭園の景観を楽しむために,部屋の配置や開口部に細心の工夫が施されています。

 賞花亭(しょうかてい) 賞花亭は,中島山上に建つ峠の茶屋といった風情で,切妻造(きりづまづくり)茅葺,間口二間・奥行一間半の小規模な建物であり,洛中の八条宮本邸にあった茶屋「竜田屋」を移建したものと推定されます。正面の壁面には竹の粗い連子窓(れんじまど)が開けられ,その左右の袖壁には下地窓(したじまど)がつくられています。この連子窓と下地窓の配分や形の比例のよさは見事です。また,この茶屋からは離宮殿舎の全景が眺望できます。

 園林堂(おんりんどう) 園林堂は,智忠親王の代に造立された賞花亭の西側にある宝形造(ほうぎょうづくり)本瓦葺の建物で,屋根に唐破風(からはふ)の向拝(ごはい)をつけた,方三間の仏堂です。桂離宮にある建物の中で唯一この小堂だけが本瓦葺で,堂内には観音像のほか宮家代々の位牌と画像を安置し,傍らに細川幽斎の画像が祀られています。

修学院離宮(しゅがくいんりきゅう) 左京区修学院藪添
修学院離宮 平面図

 桂離宮と並ぶ江戸初期の代表的な山荘である修学院離宮は,寛永6(1629)年に退位した後水尾上皇が企画した洛北の地にある広大な山荘のことです。当地には以前から上皇の茶屋である隣雲亭がありましたが,明暦元(1655)年,東福門院とともにこの近くに住む円照寺尼宮(上皇の第一皇女)の草庵に御幸した際,改めてそのすぐれた風光に魅せられ,翌2年から大規模な山荘造営に着手し,万治2(1659)年春に一応の完成をみます。

 現在離宮は上・中・下の御茶屋から構成されており,上御茶屋はこの隣雲亭を中心に計画され,広大な苑池(浴龍池<よくりゅうち>)と中島をつくり,その中島には窮邃亭(きゅうすいてい)があります。また,池には中島に渡る楓橋・土橋,中島と万松塢(ばんしょうう,大きな2個の石をいただく島)を結ぶ千歳橋が架けられ,隣雲亭からは,遠く鞍馬・貴船・岩倉・松ヶ崎・愛宕の山々を背景に,京都の市街が一望できます。

 一方,山麓に営まれた下御茶屋は,上皇が御幸の際に御座所とした使用した寿月観(じゅげつかん)を中心に,茶室蔵六庵(ぞうろくあん)・御清所(台所)などの付属建物を配しています。

 また,中御茶屋は楽只軒(らくしけん)・客殿(きゃくでん)などからなり,後水尾上皇の没後,第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)によって建立された尼門跡寺院林丘寺(りんきゅうじ,現左京区修学院林ノ脇)が隣接しています。



修学院離宮 上御茶屋

 窮邃亭(きゅうすいてい,上御茶屋) 窮邃亭は,三間四方の宝形造柿葺の建物で,東と南は深い土庇が,池に面した西と北には肘掛窓がそれぞれ取り付けられています。この建物は上・中・下御茶屋の中で,造営されてから今日まで建て替えられていない唯一の建物でありますが,各部の材料はずいぶん取り替えられて新しくなっています。南の土間庇の軒下には,後水尾上皇宸筆による「窮邃」の額が懸かっています。

 寿月観(じゅげつかん,下御茶屋) 寿月観は,数寄屋風書院造,起り屋根(むくりやね)柿葺の建物で,庭園に面してL字型に部屋が配置されています。これは室内からの眺めと同時に,庭園から見た場合の建物の姿が考慮されたためです。庭園に面した側は全面腰障子で,まわりに濡縁(ぬれえん)がめぐらされた開放的な外観となっています。障子の外に立つ雨戸は,戸袋を省略するために隅部で回転させて,北側の裏に納まるように工夫されています。また,屋根を軽くみせるために柿葺の軒先は薄い一重軒付となっています。

 林丘寺(りんきゅうじ,左京区修学院林ノ脇) 林丘寺は,臨済宗天龍寺派の寺院で,後水尾上皇の第八皇女朱宮(あけのみや)光子内親王(てるこないしんのう)の朱宮御所(音羽御所<おとわのごしょ>)が寺の前身です。朱宮は父後水尾院より修学院離宮内に別殿を賜って楽只軒と称しましたが,延宝8(1680)年,上皇の崩御によって朱宮は落飾,照山元瑤(しょうざんげんよう)と号し,御所を林丘寺と改め,尼門跡寺院とします。天和2(1682)年には本堂が建立され,その後,客殿が東福門院奥御対面所から移建されました。明治の初めには男僧住院となりましたが,明治17(1884)年,宮内省に寺地の約半分を返上,同19年,楽只軒と客殿を離宮内に残し,現在地に玄関・書院・庫裏等を移して,もとの尼門跡に復しました。現在,離宮内にある客殿は,華麗優美な意匠でまとめられ,床脇の五段の違棚(霞棚<かすみだな>)は桂離宮・醍醐三宝院の棚と共に天下の三棚と称されています。

桂離宮・修学院離宮の参観方法

 桂離宮・修学院離宮は常時公開されていませんが,参観を希望される方は,宮内庁京都事務所参観係(京都府京都市上京区京都御苑3番)へお尋ね下さい。参観の所要時間は桂離宮で1時間,修学院離宮で1時間15分ほどです。


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