金閣寺とは
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金閣と鏡湖池 |
金閣寺は正式には北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)といい,臨済宗(りんざいしゅう)相国寺派(しょうこくじは)に属する寺院で,北区金閣寺町に所在します。
本来は,寺の中心部にある金箔張りの三層楼閣(釈迦の骨を祀る舎利殿<しゃりでん>)を指して金閣といいますが,この建物が大変印象深く有名であるため,現在では寺全体が金閣寺と呼ばれて一般に親しまれるようになりました。
金閣寺の建つこの地は,鎌倉時代には,幕府とも親しい有力公卿西園寺公経(さいおんじきんつね,1171〜1244の御願寺(ごがんじ)西園寺の堂舎群と山荘北山第(きたやまてい)がありました。
その後,応永4(1397)年になり,室町幕府三代将軍足利義満(あしかがよしみつ,1358〜1408)がこの地を譲り受けました。義満は西園寺以来の堂舎群を引き継ぐとともに,自身や夫人らの御所北山殿(きたやまどの)を造営し,翌5年にこの地へ移りました。そして義満はこの地を政治・外交の中心とするとともに,北山文化をも花開かせたのです。
やがて応永15(1408)年5月に義満が没した後も,義満の室日野康子(ひのやすこ,北山院,1369〜1419)はこの地に住み続けました。しかし彼女が同26年11月に死去すると,翌月には北山殿の一部が解体され,南禅寺・建仁寺・等持寺(とうじじ,中京区柳馬場通二条下る周辺にあった足利家菩提寺)などに移築・寄進されました。
一方,遅くとも応永29(1422)年までに,義満の長男四代将軍足利義持(1386〜1428)は,禅僧夢窓疎石(むそうそせき)を名目上の開山として招き,義満の法号鹿苑寺殿を寺号にとって,北山殿の舎利殿(金閣)を中心に禅寺としました。
その後も歴代の足利将軍は護持に尽力し,しばしば参詣を行っています。この頃には舎利殿(金閣)の他,仏殿・不動堂・泉殿などがあったようですが,応仁・文明の乱(1467〜77)が起こると当寺は西軍の陣所となり,金閣を除く多くの殿舎が焼失して荒廃を余儀なくされました。
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