京都御苑 上京区京都御苑
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図A 宝永の大火以前の内裏(中井家蔵「御所近傍之図・昔 之図也」の一部) |
図B 宝永の大火以後の内裏(中井家蔵「御築地廻り公家衆屋 敷割絵図」の一部) |
京都御苑とは,宮内庁管轄の京都御所と大宮・仙洞御所の外苑にある環境省所轄の国民公園のことを指しています。
この地は,本来の大内裏に近接していたため,平安京造都以来,藤原氏一門を中心とする多くの公家邸宅がありました。その後,豊臣秀吉の時代には内裏の周辺に公家を集住させて公家町がつくられました。公家町は「御築地内」(おついじない)と言われていましたが,築地塀で囲まれていたわけではなく,公家屋敷と町家が道を隔てて建ち並んでいました(図A)。
宝永5(1708)年3月の大火後に,内裏の南西地域にあった町家を鴨川東の二条川東(左京区)などに移転させて,跡地に公家屋敷を建てました。この頃に現在の京都御苑の規模が定まったようです(図B)。
明治2(1869)年の東京遷都により公家町が荒廃すると,明治10(1877)年から同16(1883)年まで京都府による「大内保存事業」(おおうちほぞんじぎょう)が実施され,境界を北は今出川通,西を烏丸通,東は寺町通,南を内椹木町通(うちのさわらぎちょうどおり)見通し(後に丸太町通まで拡大)に設定して,その周囲に石垣を築き,空地には芝生や樹木が植えられました。その後,大正4(1915)年の大正天皇即位大礼の際に大改修が行われ,昭和24年に国民公園として今のような景観が整えられました。
苑内には以下のような旧跡が残っています。
閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと) 御苑の南西隅に位置する、閑院宮邸の遺構。天明大火後に建てられたものですが、明治以降も事務所として使用されていました。現在は建物・庭園を公開し、御苑に関する展示をしています。
拾翠亭(しゅうすいてい) 堺町御門内西側にある数奇屋造の茶室で,九条家邸の遺構。庭園は池泉回遊式で,中島には鎮守神だった厳島神社(いつくしまじんじゃ)が残り,その石鳥居(重要美術品)の笠木が唐破風になっていることで知られています。
宗像神社(むなかたじんじゃ) 拾翠亭の西北にある花山院家の鎮守神。かつては藤原氏の小一条院(冬嗣<ふゆつぐ>邸)にありました。
白雲神社(しらくもじんじゃ) 西園寺家邸内にあった鎮守社。現在,出水口東側にあります。
猿ヶ辻(さるがつじ) 京都御所の北東角は鬼門除けに隅を欠き,その築地屋根の蛙股に,御幣をかつぐ猿の浮彫りがあります。
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