寝殿造から書院造へ
文化史06

しんでんづくりからしょいんづくりへ
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寝殿造とは

 平安貴族の暮らしをイメージするとき,その生活の舞台として一緒に思い浮かぶのが寝殿造(しんでんづくり)の邸宅です。寝殿造とは,平安時代に京都で成立した貴族住宅の様式をいい,江戸時代の和学者沢田名垂(さわだなたり,1775〜1845)が著述した日本住宅史の概説書『家屋雑考』(かおくざっこう)によって名付けられたものです。

 寝殿造の邸宅では,周囲に土塀をめぐらした敷地内に正殿として寝殿を建て,その南に面した中庭を取り囲むように,南向きのコの字形に建物が配されていました(下図参照)。

 こうした建物の配置をはじめとする寝殿造の様式は,中国古来の都市住宅の建築や,いち早くそれを取り入れていた日本の内裏の建築方式にならったものといわれ,10世紀頃にほぼ完成したとされています。

居住と儀礼の空間 寝殿(しんでん)・対(たい)・南庭(なんてい)
絵巻物にみえる寝殿造(『年中行事絵巻』)。寝殿(左上は透渡殿)に面した南庭で闘鶏が行われています。

 寝殿造では,庭の周囲に並べられた建物によって,外塀の内側にもう一つの囲いがつくられました。このような二重の空間構造は,寝殿造の大きな特徴の一つです。

 内側の囲いが邸宅の中核部分になります。その最も重要な建物が寝殿(しんでん)と対(たい)です。寝殿は南に面して建てられ,対は寝殿の東西や北などに配置されました。これらは渡殿(わたどの)と透渡殿(すきわたどの)という2つの細長い建物でつながれます。

 寝殿造は本来,左右対称を理想としたようですが,ほとんどは片方の対が縮小・省略される傾向にあったようです。寝殿造では東西いずれかの外門を正門とし,反対側の門・建物はそれほど重要ではなかったため,こうした変化が進んだと考えられます。また必要に応じて東北・西北の位置にも対が築かれました。

 『源氏物語』に描かれた邸宅二条院の想定平面図。寝殿造の典型的な形がうかがえます。
 寝殿や対は,主人や家族の居所となったほか,平安貴族の生活と深くかかわっていた儀礼や行事の舞台にもなりました。寝殿の前面に整えられた南庭(なんてい)も,現代のような観賞用ではなく,寝殿と並ぶ儀式の場としてつくられた空間(ハレの場)なのです。対は寝殿の北にも築かれましたが,こちらはさらにプライベートな空間(ケの場)という意味が強かったようです。北対など北側の空間は主人の妻の居所にもなり,そこから「北の方」「北政所」(きたのまんどころ)などの語が妻の別称となったともいわれます。

 また庭に大きな池がある場合には,中島や橋が設けられ,遊宴の際には池に舟を浮かべて詩歌管弦などに興じました。その水は主に北方から引かれ,寝殿の脇,つまり渡殿の下を通して池に流されていました。これを遣水(やりみず)といいます。

内と外の境界─中門廊(ちゅうもんろう)・中門(ちゅうもん)

 寝殿と渡殿で連結された東西の対からは,さらに中門廊(ちゅうもんろう)と呼ばれる細長い建物が南に向かって延びていました。廊の南端は池に臨み,池に面して納涼や観月,雪見などに利用される釣殿(つりどの,泉殿<いずみどの>)という建物がつくられました。

 この中門廊には,その名の通り中門(ちゅうもん)が設けられており,儀礼の場となった南庭や寝殿・対などに入る玄関としての意味を持ちました。つまり来客者は,東西の外門から入った後,もう一度中門廊・中門を通ってから,対・寝殿あるいは南庭へと向かったわけです。寝殿造邸宅の二重構造は,中門と中門廊によって内外に区別されていたことになります。

出入りと事務方の空間 車宿(くるまやどり)・随身所(ずいじんどころ)・侍廊(さむらいろう)

 中門から内側が居住や儀式に使われていたのに対し,外周部となる中門から外門の間は,外への出入りや家の事務にかかわる空間として利用されていました。

 たとえば中門の附近には,牛車を置いておく車宿(くるまやどり)や,主人の警護や行列への随行を職務とした随身(ずいじん)が詰める随身所(ずいじんどころ)などがありました。現代になぞらえると,車を置くガレージとガードマンの詰める警備所といったところでしょうか。

 また家内の事務を任された家人が詰めた侍所(さむらいどころ)が置かれていた侍廊(さむらいどころ)も,同じくこの空間にありました。

 さらにこうした諸施設のほか,邸宅の北側にあたる空間には倉や雑舎(ぞうしゃ)など雑多な建物が置かれていたようです。

寝殿・対の内部構造と「室礼」(しつらい)

 一方,寝殿造の建物そのものに目を向けると,その主要殿舎であった寝殿や対は,桧皮葺(ひわだぶき)・入母屋造(いりもやづくり)で,母屋(もや)の周囲には屋根とその下の床がめぐらされていました。これを庇(ひさし)といい,さらに庇の周囲に孫庇(まごびさし)が付け足されることもありました。

 また母屋には塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる壁で囲まれた部屋もつくられましたが,それ以外に間仕切りは存在せず,屏風・御簾(みす)・几帳(きちょう)などの調度品を適当に置いて広い空間を仕切りました。また板敷の床には,座る場所にのみ畳や筵(むしろ)などの座具を敷き,そのほか用途にしたがって家具調度が配置されていました。

 こうした寝殿造建築の開放性や柔軟性は,さまざまな儀式に応じて空間の広さや調度・座具の配置などを頻繁に変更する必要があったためと考えられます。調度で室内を区切り飾り付けて設営することを「室礼」(しつらい)といいます。

書院造とは

 以上のような寝殿造の様式は鎌倉時代以降も受け継がれ,社会の移り変わりや日常生活の変化に対応しながら発展していきました。そうした流れのなか,室町時代後期から江戸時代初期にかけて書院造(しょいんづくり)が成立していくことになります。

 書院は本来,禅僧の住房の居間兼書斎の名称でしたが,やがて床の間(とこのま)・違棚(ちがいだな)・付書院(つけしょいん)など座敷飾(ざしきかざり)と呼ばれる設備を備えた座敷や建物を広く呼ぶようになったものです。この書院を中心に構成された住宅の様式を書院造といい,格式を重んじ,対面・接客の機能を重視してつくられていました。

 今日でも,和風住宅といえばすぐに床の間や畳敷きの和室が思い出されるように,書院造によって生み出されたさまざまな様式は,現代にいたるまで受け継がれています。

書院造の空間構成 表の空間と奥の空間
二条城二の丸御殿平面図

 書院造は大きく分けて「表向き」と「奥向き」から構成されていましたが,特にそれらの中心となったのが,対面や接客のために使用された書院(広間・対面所とも)です。

 表には公的な対面・接客のための書院をはじめ,出入り口には寝殿造邸宅の中門・中門廊にあたる玄関,武士の出入りや詰め所となった遠侍(とおざむらい)や控えの間,また来客に送迎の挨拶をするための式台(しきだい,色代)などが設けられました。

 一方,奥には日常的な政務・対面の場となった御座の間(ぎょざのま)や居間・寝室となった御寝の間(ぎょしんのま)などに使用された書院のほか,台所など勝手回りの場も奥にありました。

 このように用途や場所の異なる複数の書院を備えた邸宅や寺院では,それぞれの書院を,大書院・小書院,黒書院・白書院,また表書院などと区別して呼ぶこともありました。

 近世初期の書院造の典型とされる二条城二の丸御殿の場合,建物は雁行形に配置されて,表向きには遠侍や式台,公的な対面所の大広間があり,奥向きには私的な対面所の黒書院や御座の間となった白書院が設けられています。

 書院造では,書院に限らず,以上のような部屋や建物は,それぞれ特定の使用目的を持っていました。寝殿造では寝殿・対が居住と儀式の空間を兼ねたことを考えれば,このことは書院造の大きな特徴の一つといえます。

書院の内部構造と「座敷飾」
二条城二の丸御殿大広間

 さらに書院造建築の内部でも,寝殿造とは違って母屋と庇(ひさし)の区別は失われ,また襖・障子など間仕切りの発達によって屋内は細分化されており,各部屋の用途がそれぞれ定められていました。また,床には畳が敷き詰められました。

 書院造で最も重要な場といえる書院には,庭に面した複数の部屋が用いられており,主人の座が置かれた主室は上段につくられ,さらに上々段が設けられることもありました。

 また主室の背後には,主人の座を荘厳なものにするため,書画の掛軸や生花・置物などを飾る床の間(とこのま)や,上下2段の棚板を左右食い違いに吊した違棚(ちがいだな),縁側に張り出した机や飾り棚の付書院(つけしょいん)などの座敷飾(ざしきかざり)が集中して備えられていました。

 こうした書院の構造や意匠も,対面・接客儀礼を目的に,主客の身分格差を空間的に表現するためのものといえます。

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宇治市源氏物語ミュージアム 宇治市宇治東内
六条院復元模型(1/100 宇治市源氏物語ミュージアム蔵)

 貴族の邸宅で使用された調度や牛車の復元品のほか,『源氏物語』の主人公光源氏(ひかるげんじ)の邸宅として知られる六条院の復元模型が展示されています。

 六条院は四町(約240メートル四方)もの敷地に,四季に応じた一町規模の殿舎や庭を4つ備え,物語に描かれた寝殿造の理想像が窺えます。

 このほか,風俗博物館(下京区堀川通新花屋町角,井筒ビル5階)にも,六条院の「春の御殿」(はるのおとど)の復元模型(縮尺4分の1)が展示されています。

平安展示室 下京区中堂寺南町(京都リサーチパーク東地区内)

 昭和62年,当地の土地開発の際に9世紀前半の寝殿造邸宅の遺構が発掘され,その復元模型(縮尺40分の1)のほか,出土した食器・生活用品などが展示されています(観覧にはリサーチパーク総合受付まで申し込みが必要)。

 この地は平安右京六条一坊五町にあたり,遺構にもとづいて平安貴族邸宅の全容が復元された貴重な例です。3分の2町を占める敷地の南半分に寝殿と北・東・西・東南の対,侍廊などがあり,池はなかったことなどが判明しました。

銀閣寺(慈照寺)東求堂(とうぐどう) 左京区銀閣寺町

 銀閣寺は,足利義政(1436〜90)の造営した山荘東山殿が,義政の没後に寺とされたものです。

 義政の持仏堂と伝える東求堂(国宝)は,書院同仁斎(どうじんさい)や仏間など4室で構成され,間仕切りに襖を用い,畳を敷き詰めています。同仁斎は四畳半の狭い部屋に違棚と付書院を持ち,この2つを備えた建物では最も古いものとされ,書院造の初期形式を窺わせる貴重な遺構として知られています。

二条城二の丸御殿 中京区二条堀川西入二条城町

 二条城は慶長7(1602)年,徳川家康(1542〜1616)の上洛中の居館として造営が開始され,翌年に家康が入城しました。平成6年には世界文化遺産として登録されています。現在の二の丸御殿(国宝)は,寛永3(1626)年に後水尾天皇の行幸を迎えるために改築されたもので,近世初期の書院造の典型的な遺構として知られています。

 なお,屋内の金壁障屏画(国指定重要文化財)は狩野探幽(かのうたんゆう)をリーダーとする狩野派の作です。現在,原画の永久保存のために模写事業が実施されており,平成4年には黒書院障壁画と模写画との交換作業が完了しています。


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