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学問の都として古くからの伝統を持つ京都は,現在も全国有数の大学都市として知られています。 平成13年度の調査では,市内に所在する大学(4年制・短大)は37校,その学生数は約13万6000人(京都市総人口の約1割)にのぼり,学生数の人口比は全国の大都市で第1位です。ちなみに同年度,東京都区部は126校・約48万人,大阪市では17校・約3万7000人でした。 このような現在につながる大学の制度は,明治19(1886)年の帝国大学令にもとづく帝国大学(現在の東京大学)の創立に始まります。これに続く2番目の帝国大学として設立されたのが,京都帝国大学(現在の京都大学)です。 また明治以降,官立の帝国大学とは別に,私立の学校が次々と創立されていきました。京都では早くから同志社英学校(現在の同志社大学)や京都法政学校(現在の立命館大学)が創立されたほか,京都に本山を置く仏教各宗派の学校も改革が進められ,明治時代に近代的な学校となりました。 当初,最高学府としての大学と認められていたのは,官立の帝国大学に限られていました。しかし,やがて多くの私立学校が大学を名乗るようになり,大正7(1918)年の大学令施行によって,官立・私立を問わず多数の大学が大学令による最高学府として発足しました。 さらに戦後,教育制度が改革され,昭和22年の学校教育法施行により大学も新制大学として改編され,現在にいたる大学教育制度が整備されることになりました。 なお近年,こうした京都市内の大学の多くが,敷地・設備の拡大と充実を目的に市外へキャンパスの移転を進めており,新しい大学都市としての京都の姿が模索されています。 |
![]() 京都大学の前身となった京都帝国大学は,明治30(1897)年に創設されました。東京帝大が政府と深いかかわりを持ったのに対し,京都帝大は中央とは距離を置き,自主独立を伝統に自由な校風を特徴としたといわれます。 京都の地に帝国大学をつくる構想は,最初の帝国大学が創立された頃からありましたが,明治20年代後半,公家出身で京都と縁の深い文部大臣西園寺公望(さいおんじきんもち,1849〜1940)のもとで計画が具体化されました。 京都帝大の敷地と建物には,上京区吉田町(現左京区吉田本町)にあった第三高等学校のものが転用され,まず理工科大学(学部)が開設されました。続いて明治の間に法科・医科・文科が置かれ,大正時代には理工科が工科・理科に分離,さらに経済・農学部も増設されるなど,京都帝大は次第に総合大学としての陣容を整えていきました。 そして戦後,京都帝大の南隣に移転していた三高と合体して新制大学へ改編され,京都大学として現在にいたります。 |
![]() 新島襄(1843〜90)は,上野国(こうずけのくに)安中藩(あんなかはん,群馬県南西部)藩士の家に生まれました。しかし兵学等を修養するなかでキリスト教に強くひかれ,渡米して神学校を卒業し,牧師となりました。 新島はキリスト教にもとづく学校の設立を志し,帰国後の明治8(1875)年,京都に同志社英学校を設立しました。「同志社」の名称は,新島と同志が協力して一社を結んだことに由来しています。 さらに明治21(1888)年,新島は「同志社大学設立の旨意(しい)」を公表し,キリスト教を徳育の基本にすえた私立大学の設立を広く訴えました。この構想は新島の没後も後継者達に受け継がれ,同志社英学校は専門学校となった後,明治45(1912)年,同志社大学となりました。 そして大学令施行後,大学令にもとづく最高学府として認可され,戦後は新制大学へ移行して現在にいたっています。 |
![]() 立命館大学は,西園寺公望の秘書を務めて京都帝大の創設にもかかわった中川小十郎(1866〜1944)が,明治33(1900)年に創設した京都法政学校に始まります。 同校は,門戸の狭い京都帝大を私学によって補佐し,高等専門教育をひろく開放しようという中川の構想をもとに,当初は夜学として始められ,また専任教授は置かずに京都帝大の法科大学教授が講師陣として迎えられました。 やがて同校は京都法政専門学校,京都法政大学を経て,明治38(1905)年には西園寺公望から,彼が明治2(1869)年に開いた私塾立命館の名称を継ぐことを許され,大正2(1913)年に私立立命館大学と改称しました。「立命館」の名称は,『孟子』(もうし)尽心篇(じんしんへん)の「身を修めて之(こ)れを俟(ま)つは,命を立つる所以(ゆえん)なり」という一文を典拠とするものです。大学令の後は立命館大学となり,戦後は新制大学として現在にいたっています。 |
![]() また仏教各宗派の本山を多くかかえる京都では,僧侶を育成する学校が古くからあり,大学へと発展しました。 浄土真宗では,西本願寺に寛永16(1639)年創立の学寮が,また東本願寺にも寛文5(1665)年創立の学寮がそれぞれありました。これらは明治以降の改革を経て,大正11(1922)年,西本願寺学寮は龍谷大学,東本願寺学寮は大谷大学として大学令による大学になり,さらに戦後は新制大学として現在にいたっています。 さらに浄土宗では,江戸に設立された学問所を起源とする勧学院が知恩院に置かれ,改称や東京への一時移転などを経た後,昭和24(1949)年に佛教大学となりました。また臨済宗でも,妙心寺般若林(はんにゃりん)が改編や移転などを経て,昭和24年に花園大学となっています。 |
![]() 東京遷都後の京都では,衰勢を挽回すべく様々な復興政策が行われましたが,この時期に設置された施設や学校も,やがて専門大学として発展していくことになります。 明治5(1872)年,ドイツ医学を導入して開設された京都療病院は京都の医学教育の中心となり,京都府医学校を経て,同36(1903)年に府立医学専門学校となりました。 また明治13(1880)年には京都画壇の協力のもと,日本初の公立絵画学校として京都府画学校が設立されました。 |
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なお市内から市外へ移転した大学に,京都医療技術短期大学(園部町)・京都文教短期大学(宇治市)・成安造形短期大学(長岡京市)・平安女学院短期大学(高槻市)などがあります。 |
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![]() 京都大学本部の正門は,明治26(1893)年,文部省技師山口半六・久留正道の設計により第三高等学校の前身である第三高等中学校の正門として建てられ,京都帝大の創立にともない転用されたものです(国登録有形文化財)。 また構内には,明治22(1889)年に竣工し,京大に現存する最古の建築物とされる第三高等中学校物理学実験場(現在の留学生センター)をはじめ,貴重な近代建築群が多く残されています。 |
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明治9(1876)年,この地の同志社英学校が薩摩藩屋敷の跡地(上京区今出川通烏丸東入玄武町,現在の同志社大学今出川キャンパス)へ移転すると,この地に新島襄の私邸が明治十一(一八七八)年に造られました。 その様式は,建物の周囲にベランダをめぐらした木造2階建の和洋折衷様式で,設計は新島が宣教医テーラーの助言を得て自ら行いました。建物は現在も,新島の遺品や愛読書,家具などとともに保存されており(市指定有形文化財),邸宅を示す石標が建てられています。 また今出川キャンパスには,市内に現存する最古の煉瓦建築とされる彰栄館(しょうえいかん)や,礼拝堂・有終館(ゆうしゅうかん)・ハリス理化学館・クラーク記念館(すべて重要文化財)など,貴重な近代建築群が現在も残されています。 |
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明治33(1900)年に創設された京都法政学校(現在の立命館大学)は,発足の当初は料亭清輝楼(せいきろう)の座敷を借りて仮教室とし,講義を行っていました。現在,その跡にあたる地に「立命館草創の地」の石標が建てられています。 同校は創立の翌年には本校舎(広小路通河原町西入)へ新築移転し,昭和56年に衣笠キャンパス(北区等持院北町)へ完全移転するまで同地にありました。その跡にあたる京都府立医科大学付属図書館の敷地内に,現在「立命館学園発祥地」の石標が建てられています。 |
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現在の龍谷大学大宮キャンパスの本館および南黌(なんこう)・北黌(ほくこう)・旧守衛所・正門などは,明治12(1879)年,龍谷大学の前身である西本願寺大教校(だいきょうこう)の施設として建てられました。 本館は木造石貼2階建で旧大教校の講堂にあたり,また南北黌は宿舎として使用されました。これらは明治初期,日本の大工が西洋建築を見よう見まねで建てた擬洋風(ぎようふう)建築として知られています(国指定重要文化財)。 |