京都の茶湯
文化史21

きょうとのちゃのゆ
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京都の茶湯

 村田珠光(むらたじゅこう,1423〜1502)が創始し,武野紹鴎(たけのじょうおう,1502〜55)が洗練し,千利休(せんのりきゅう,1522〜91)が大成した茶湯は,桃山時代から江戸時代初期にかけて大名や富商の嗜みとして大いに興隆しました。しかし,その流行と普及につれて茶湯の理念である「わび」の心が忘れられ,茶湯は単なる風流な趣味ないし遊芸へと変化していきます。

 このような風潮に対する反省は,利休の孫にあたる千宗旦(せんのそうたん,1578〜1658)のころからおこりつつあり,宗旦の息子達によって流派が成立するころには,茶湯は茶禅一味を実践した「茶道」へと展開していきます。

茶の伝来

 日本での茶の飲用起源については明らかではありませんが,9世紀初頭に永忠ら中国(唐)へ留学した僧によって伝えられたと考えられています。当時の喫茶方法は,陸羽(りくう)の「茶経」(8世紀中期成立)に記されているような唐風の団茶法(だんちゃほう)と呼ばれるもので,蒸した茶葉をさまざまな形にして乾燥保存し,飲む時は必要量をほぐして,粗く粉末にしたものに塩や生姜を加えて釜で煎じました。

 本格的な茶の栽培が始まるのは,鎌倉時代に明庵栄西(みょうあんえいさい/ようさい,1141〜1215)が宋より抹茶の製法(摘採→蒸製→乾燥→粉砕)を伝来してからであり,この茶種は右京区の栂尾(とがのお)を初めとして各地で栽培されるようになります。

茶寄合(ちゃよりあい)の流行
台子飾(彦根城博物館蔵)

 南北朝時代になると茶の品質を当てる茶勝負(闘茶)の会,いわゆる茶寄合が盛んに催されるようになり,延暦寺の学僧玄慧法印(げんえほういん,?〜1350)が記したとされる『喫茶往来』(きっさおうらい)には,この茶寄合の座敷飾や現在建仁寺の茶会(四つ頭<よつがしら>茶会)で行われているような茶礼が記されています。

 このような禅院の茶礼は,特に武家社会に受容され,それは書院造の発展にともない,唐物・唐絵などで座敷を飾り,唐物の器物を用いて点前作法を行う書院(殿中)茶湯へと展開します。

 ちなみに書院の茶湯では座敷に隣接する場所(茶湯所)で用意された茶を持ち運ぶか,台子(だいす,茶道具をおさめる4本柱の棚)を座敷に持ち込んで点茶をするかの2方法がとられました。

 また,この頃には東寺をはじめとした社寺の門前などで参詣人相手の一服一銭の立売茶店も出現するようになります。

市中の山居(さんきょ)

 15世紀後半には,のちに茶祖と仰がれる村田珠光(むらたじゅこう,1423〜1502)が登場します。珠光は,唐物の持つ完全美よりも,国産品が持つ不完全さに美を求め,備前焼や信楽焼(しがらきやき)などの粗相な器を茶湯に取り入れました。

 また,珠光は,一休宗純(いっきゅうそうじゅん,1394〜1481)に参禅して体得した禅の精神をもって,茶禅融合を提唱し,座敷飾などを極力簡素化した質素な美を追求しました。

 この美意識の変化は,室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ,1436〜90)が建立した東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい,左京区銀閣寺町慈照寺内)のような書院の小型化や,書院に代わる草庵茶室の出現をもたらしましたが,その中心は富裕な町衆でした。

 当時,彼らの間では,町の中に草庵を持つことを「市中の山居」(しちゅうのさんきょ)と言い,特に京都においては,珠光の養子村田宗珠(むらたそうじゅ,生没年不詳)などの茶人達が「下京茶湯者」と呼ばれたように,公家や武家が住む上京ではなく,商工業者が密集する下京に閑居を求めました。

 堺の茶人武野紹鴎(たけのじょうおう,1502〜55)もまた四条室町に山居を構えた下京茶湯者であり,珠光の茶湯の特色をより一段と明確にした人物です。紹鴎は四畳半を基本とする草庵茶法をつくり,わび茶への志向をはっきりと打ち出します。

 この後,茶湯は三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らの戦国大名に荷担されて発展の機運に向かっていくのですが,それをさらに推進したのは織田信長(1534〜82)ついで豊臣秀吉(1536〜98)です。

千利休(せんんのりきゅう)

 武野紹鴎に師事した千宗易(そうえき,利休,1522〜91)は,今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)らとともに信長・秀吉の茶頭となり,天下一の宗匠の名を得ました。天正13(1585)年10月,宗易は利休の居士号を勅賜され秀吉が催した禁中の茶会に出席,同15(1587)年10月1日の北野の大茶湯では,秀吉の呼びかけに応じ茶を点(た)てています。

 この利休の茶は継子千少庵(しょうあん)や孫の宗旦(そうたん)に受け継がれ,千家の茶として発展する一方,利休七哲と呼ばれる大名達にも受け継がれました。ことに天正19(1591)年春,利休が秀吉の命により自刃してからは古田織部(ふるたおりべ,1544〜1615)やその弟子小堀遠州(こぼりえんしゅう,1579〜1647),遠州の後継者の片桐石州(かたぎりせきしゅう,1605〜73)らが次々と江戸幕府の将軍指南役となり,「大名茶」と呼ばれる系譜を確立します。

 また,「楽家文書」によると,利休は信長茶頭時代より,朝鮮から渡来した阿米夜(あめや)の子長次郎(ちょうじろう,?〜1589)を指導して好みの茶碗を制作しており,のちに聚楽の土で焼いたこの茶碗は,秀吉から「楽」の印が与えられ楽焼と呼ばれるようになります。

堂上(とうしょう)の茶

 茶湯は,もともと公家社会とあまり縁がなく展開しましたが,秀吉のころから次第に公家社会にも浸透するようになり,堂上の茶と呼ばれるようになりました。

 その傾向は,江戸初期,寛永文化の一環として一段と進みました。この傾向をさらに進めたのが,近衛応山(このえおうざん,信尋<のぶひろ>,1599〜1649)・一条恵観(いちじょうえかん,昭良<あきら>,1605〜72)の寵顧をうけ,さらに後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)・東福門院からも信頼を受けた金森宗和(かなもりそうわ,1584〜1656)です。

 宗和の茶趣は,彼が指導して焼かせた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年不詳)の色絵の陶器がよく示すように,わびを基調としつつも優雅な王朝古典趣味を漂わせたものでした。

三千家(せんけ)の成立
裏千家今日庵

 利休の切腹後,千道安(どうあん,利休の長男,1546〜1607)・少庵ともに身柄を大名に預けられますが,数年後ゆるされて帰京しました。道安は秀吉の茶頭に復帰しますが,秀吉が没したことで堺へ退きます。これに対して京都に留まった少庵はその子宗旦とともに千家の再興にあたりました。

 宗旦は父少庵と同様に大名家からの招請を拒否し,本法寺(ほんぽうじ,上京区小川通寺之内上る本法寺前町)の門前に簡素な草庵をかまえ,清貧に甘んじながら,利休以来のわび茶の道統の護持とその深化につとめていました。

 一方で彼は大名家の庇護がなくては道統の維持さえ困難な時勢を洞察して,家督をゆずった三男江岑宗左(こうしんそうさ)を紀州徳川家に,ついで四男仙叟宗室(せんそうそうしつ)を加賀前田家に,次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)を讃岐松平家にそれぞれ茶頭として仕えさせます。ここに表千家(不審庵<ふしんあん>)・裏千家(今日庵<こんにちあん>)・武者小路千家(官休庵<かんきゅうあん>)の世にいう三千家の原型が成立し,宝暦・明和(1751〜71)のころから利休流茶道の家元として栄えるようになります。なお,下京の本願寺と関わりが深く,利休と同門の藪内家を下流(しもりゅう)と呼ぶのに対して,三千家を上流(かみりゅう)と呼んでいます。

 この後,三千家流以外にも遠州流・石州流などの諸流派が競い起こり,茶湯は武家・公家・僧侶の社会からあふれて京都・大坂・江戸をはじめ地方都市の富商や豪商らの間にまで普及するようになりました。

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日本最古の茶園 右京区梅ヶ畑栂尾町(うめがはたとがのおちょう,高山寺内)

 『喫茶養生記』(きっさようじょうき)の著者で臨済宗開祖の明庵栄西(みょうあんえいさい/ようさい,1141〜1215)は宋から抹茶法を請来しました。栄西から茶種を与えられた高山寺開山明恵高弁(みょうえこうべん,1173〜1232)が,栂尾の地に植えたところ,地味がよく優れた茶がとれるようになったといわれています。

 以来当地の茶は本茶(ほんちゃ)と呼び,他所産の非茶(ひちゃ)と区別され,鎌倉・室町時代には毎年禁裏と将軍家に献上するのを慣例としました。現在,その茶園跡を示す石標が建てられています。

建仁寺(けんにんじ)の茶礼(されい) 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町
(建仁寺内方丈)
建仁寺の茶礼 (右)浄瓶から茶碗へ湯を注いでいる。(左)茶筅で点茶をしている。

 毎年4月20日の開山(栄西)降誕会に行われる建仁寺の茶会は,四つ頭(よつがしら)茶会とも呼ばれ,独特の方法で点茶を行います。 まず,方丈(重要文化財)に集まった会衆に「供給」(くきょう)の僧から抹茶が入った台付きの天目茶碗と菓子が配られます。続いて,浄瓶(じんびん,注ぎ口に茶筅<ちゃせん>がはめてある)を左手に持った供給の僧が会衆の前に立ち,右手で茶筅を取り,会衆が差し出した茶碗に湯を注ぎ,右手の茶筅で点茶します。

 この禅院の茶礼は今日見られる茶会の古い形態を具体的に知る上で貴重な行事です。

大黒庵(だいこくあん)武野紹鴎(たけのじょうおう)邸跡 中京区室町通四条上る東側

 武野紹鴎(たけのじょうおう,1502〜55)は,室町後期の茶人で,大黒庵と号し,堺の有力町衆の一人でした。24歳で上京し四条室町に居を構え,三条西実隆(さんじょうにしさねたか,1455〜1537)に古典を学び,茶湯は村田珠光(むらたじゅこう)の弟子である十四屋宗悟(じゅうしやそうご)から手ほどきを受け,四畳半の侘び茶をさらに簡素化し小座敷などを創作し,草庵茶湯の法度をつくった茶人です。

 その邸宅跡には石標が建っており,近くには珠光や紹鴎が茶をたてるのに利用した菊水井(祇園祭菊水鉾の名前の由来)の跡があります。

北野大茶(きたのおおちゃのゆ)湯跡 上京区馬喰町(北野天満宮境内)

 天正15(1587)年10月1日,九州平定と聚楽第造営を記念して豊臣秀吉主催の大茶湯が北野で催されました。

 大茶湯の当日,北野天満宮の拝殿に持ち込まれた茶席には秀吉蒐集の名物が飾られ,参加者の拝見を許す一方,拝殿の外では秀吉・利休・津田宗及(つだそうぎゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)が茶席を設けて参加者に茶を供しました。この4茶席で用いられた茶道具も秀吉が集めたもので,茶事は正午で切り上げられましたが,参加者は貴賤を問わず803人にのぼったといわれています。

 現在,北野天満宮の参道には,その茶会会場の跡地を示す石標が立てられています。

三千家(せんけ)の茶室
表千家不審庵 武者小路千家官休庵

 千利休切腹後,継子少庵が豊臣秀吉から千家復興を許され,表千家の代表的な茶室となる不審庵(ふしんあん,上京区小川通寺之内上ル東側)を復興しました。その後,息子の宗旦に譲られ,正保3 (1646)年,宗旦の三男江岑宗左(こうしんそうさ,1613〜72)がこの庵を継ぎます

 不審庵を譲った宗旦は北隣に今日庵(こんいちあん)を建てて隠居しており,この茶室は四男仙叟宗室(せんそうそうしつ,1622〜97)が継ぎ,裏千家の代表的な茶室としました。

 次男一翁宗守(いちおうそうしゅ,1593〜1675)が建てた官休庵(かんきゅうあん,上京区武者小路通小川東入北側)は,武者小路千家の代表的な茶室であり,庵名は宗守が讃岐高松藩を辞して造営したことに由来します。

茶道資料館 上京区堀川通寺之内上る(裏千家センター内)

 財団法人今日庵が設置する茶道美術品展示施設で,今日庵文庫を併設して,昭和54年に開館しました。茶道関係の資料の蒐集保管と調査研究,さらに茶道の歴史や道具の展示を行っています。

 なお,年間に企画展が4回行われ,茶席もあり抹茶とお菓子の接待を受けることが出来ます。

樂美術館(らくびじゅつかん) 上京区油小路通中立売上る

 楽焼窯元の楽家に伝来する陶芸品の展示施設で,昭和53年,公益財団法人として設立されました。初代長次郎以来400年にわたる歴代の楽陶工芸品を中心に,茶道工芸品・関係古文書などを収蔵しています。


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