市中の山居(さんきょ)
15世紀後半には,のちに茶祖と仰がれる村田珠光(むらたじゅこう,1423〜1502)が登場します。珠光は,唐物の持つ完全美よりも,国産品が持つ不完全さに美を求め,備前焼や信楽焼(しがらきやき)などの粗相な器を茶湯に取り入れました。
また,珠光は,一休宗純(いっきゅうそうじゅん,1394〜1481)に参禅して体得した禅の精神をもって,茶禅融合を提唱し,座敷飾などを極力簡素化した質素な美を追求しました。
この美意識の変化は,室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ,1436〜90)が建立した東求堂同仁斎(とうぐどうどうじんさい,左京区銀閣寺町慈照寺内)のような書院の小型化や,書院に代わる草庵茶室の出現をもたらしましたが,その中心は富裕な町衆でした。
当時,彼らの間では,町の中に草庵を持つことを「市中の山居」(しちゅうのさんきょ)と言い,特に京都においては,珠光の養子村田宗珠(むらたそうじゅ,生没年不詳)などの茶人達が「下京茶湯者」と呼ばれたように,公家や武家が住む上京ではなく,商工業者が密集する下京に閑居を求めました。
堺の茶人武野紹鴎(たけのじょうおう,1502〜55)もまた四条室町に山居を構えた下京茶湯者であり,珠光の茶湯の特色をより一段と明確にした人物です。紹鴎は四畳半を基本とする草庵茶法をつくり,わび茶への志向をはっきりと打ち出します。
この後,茶湯は三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らの戦国大名に荷担されて発展の機運に向かっていくのですが,それをさらに推進したのは織田信長(1534〜82)ついで豊臣秀吉(1536〜98)です。
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