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朝鮮通信使は,足利・豊臣・徳川の武家政権に対して,朝鮮国王が書契(しょけい,国書)および礼単(進物)をもたらすため派遣した外交使節団のことで,「朝鮮信使」「信使」「朝鮮来聘使」「来聘使」(らいへいし)などとも呼ばれていました。実質的には,江戸時代に12回にわたって来日した使節団のことを指しています。 江戸時代の朝鮮通信使は,幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣し,これを受けた朝鮮側が,正使(文官堂上正三品),副使(文官堂下正三品),従事官(文官五・六品)の三使を中心に使節団を編成しました。この三使には,将来朝鮮政府首脳部になるべき人物が選ばれます。 この通信使の来日は,文化面においても多大な影響を与え,絵画や歌舞伎の題材にも取り上げられるほどでしたが,なかでも,当時の文化人にとっては,先進的な大陸の文化を取り入れる絶好の機会でした。 |
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朝鮮王朝(1392年に李成桂<りせいけい/イ・ソンゲ>によって成立)の宮中において三使が国王に挨拶を行った後,通信使一行は,都がある漢陽(ハニヤン,現ソウル)を出発,陸路で釜山浦へ下り,永嘉台(ヨンカデ)から乗船して対馬に渡ります。対馬・壱岐を経て筑前の藍島(あいのしま,福岡県新宮町相島)に至り,日本本土の最初の停泊地,赤間関(あかまのせき,山口県下関市)に到着すると,対馬藩や西国大名の護送船を加えて大船団が構成され,瀬戸内海に入り,上関(山口県熊毛郡)・牛窓(岡山県瀬戸内市)・兵庫(兵庫県神戸市)などの要所要所の港で潮待ち・風待ちをしながら大坂に入ります。 通信使は,この大坂で幕府が用意した川御座船(かわござぶね)に乗り換えて淀川をさかのぼり,淀に上陸,京都滞在を経て,大津・草津宿へと入ります。その後,一行は,野洲より朝鮮人街道を通って彦根まで行き,中山道を経由して東海道に戻り,江戸へと向かいます。復路はこの行程を逆にたどって朝鮮に帰国しており,往復で半年にも及ぶ長旅でした。 ちなみに,慶長元(1596)年からの使節団には,1回につき約300~500人の人員が随行しており,寛永13(1636)年以降は,その内の船団関係者約百名が大坂で残留し,江戸を往復する間に長い航海で傷んだ船体を補修して帰路に備えていました。 |
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室町時代には,6回にわたって通信使が来日しました。来日の理由は,倭寇禁止の要請や将軍襲職祝賀が多く,幕府も同じ認識で迎えており,寛正元(1460)年に来日した通信使は,日本の請いに応じて,大蔵経や諸経を贈呈しています。また,豊臣政権のもとでは,2回にわたり,いずれも文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)に関係した交渉を行っています。 江戸時代には12回来日しましたが,初期の5回までは複雑な理由を秘めていました。たとえば寛永13年の通信使の場合,幕府では「泰平の祝賀」と考えていましたが,朝鮮王朝では,徳川将軍の呼称を従来の「日本国王」から「日本国大君」へと変更したことや,対馬藩主である宗義成(そうよしなり)の国書偽造を暴露した対馬藩家老柳川調興(やながわしげおき)の処分など,朝鮮政策の変化の意味を探り,かつ,柳川氏と対決した宗義成を擁護するために来日しています。 また,16世紀末,明国で農民の反乱が多発し,加えて元和2(1616)年,中国東北部に後金(後の清国)が建国されるなど,大陸の情勢は緊迫していました。 朝鮮は,北方より侵入する後金の圧力に対し,明国を支持する方策を堅持していたため,通信使派遣は,南方日本との和平を保つ必要に迫られてのものでもありました。このように通信使の来日は,東アジアの動向とも深く関連しています。 朝鮮通信使一覧(『国史大辞典』により作成)
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![]() 京都と朝鮮通信使の歴史には,京都五山,とりわけ天龍寺・東福寺・建仁寺・相国寺との深いつながりがあります。室町時代の京都五山は,仏典の研究ばかりでなく儒学の研鑽にも努めており,そのことは五山文学にあらわれています。 対馬の厳原(いずはら,長崎県対馬市)にあった朝鮮との外交事務を管掌する以酊庵(いていあん,現西山寺)には,寛永年度から京都の碩学の僧が輪番僧として派遣されていて,慶応2(1866)年の廃止まで,天龍寺から37人,東福寺から33人,建仁寺から32人,相国寺から24人(いずれものべ人数)が赴任しています。 |
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伏見区の淀に「唐人雁木旧趾」とかかれた小さな石標があります。「雁木」とは船着場の桟橋に作られた階段のことで,淀川をさかのぼってきた通信使は,この地点より上陸し,陸路で京都へと向かいました。 この上陸地点には茶屋が設けられ,一行はここで丁重な接待を受けており,明暦元(1655)年のときは接待にあたった宗義成と淀藩主永井尚政の請いによって,下船後,近くの富商の家で振る舞いを受けています。 その家は,生け垣に囲まれ,松の木と動物に似た石が池辺にある瀟洒(しょうしゃ)な屋敷であり,このとき,供された食事には,馬乳・葡萄・大きな栗・みずみずしい梨・干し柿などがあった,と従事官であり有数の詩人でもあった南龍翼(ナム・ヨンイク,号は壺谷<ホゴク>)は『扶桑録』に書き残しています。 |
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![]() 通信使は,淀で上陸した後,鳥羽街道を北上します。途中,実相寺(南区上鳥羽鍋ヶ淵町)が休憩場所とされ,正使・副使・従事官の三使以下,衣冠を改めて入洛に備えました。 このあたりは江戸時代すでに京都を控えた近郊農村地帯で,水田のほか,木綿や野菜の栽培も盛んで,通信使が書き残した記録にも行き届いた土地利用が目にとまったとの記事が見られます。特に水車の技術に関しては,その技術を持ち帰り,朝鮮の農場に取り入れたと言われています。 |
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![]() 寛永13(1636)年以降,通信使は,享保4年(1719)の本能寺宿泊を除けば,すべて本国(圀)寺を宿舎として京都に滞在しています。 通信使は,本国寺から松原通を東に入り室町通まで行き,室町通を今度は北に三条通まで上がり,三条通を東へ折れ,東海道の入り口である三条大橋から江戸へと向かいました。 江戸からの帰路においては,三条通から縄手通(大和大路)を南へ下って方広寺大仏殿前を通ります。これは享保9年(1724)まで大仏殿前で対馬藩主主催の招宴があったためであり,大仏殿からの帰路は,五条通(現松原通)まで北上して,寺町通→四条通→室町通→松原通の順で本国寺に入ります。 宿館であった本国寺は,当代の文化人にとっては格好の交流の場であり,寛永14(1637)年に通信使が江戸からの帰りに立ち寄った際,漢詩人の石川丈山(いしかわじょうざん,藤原惺窩<ふじわらせいか>門人)が当寺を訪れ,一行の書記である権 この本国寺は,貞享2(1685)年より水戸藩主徳川光圀(みつくに)の庇護を受け,寺名を「本圀寺」に改めたと伝えており,昭和46年には,山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。 |
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![]() 『洛中洛外図屏風』のいくつかには,通信使一行が二条城の前を行く光景を描いています。しかし,通信使を扱った記録類には,二条城に立ち寄った記事は皆無で,慶長より寛永元年までの三度は紫野大徳寺が宿館であったため,あるいはその時の情景を描いたものかと推察されます。 本国寺と同様に大徳寺でも,寛永2(1625)年,江戸より帰途の際,当寺の住持であった江月宗玩(こうげつそうがん)が三使に茶酒を呈して歓待し,江月の五言絶句に三使が次韻するなどの文化交流が行われました。 |
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耳塚とは,豊国神社の門前にある,土を大きく盛り,その上に五輪塔が建てられた塚のことです。文禄・慶長の役の際,武士達は,首級の代わりに朝鮮人の耳や鼻を塩漬けにして樽に詰め京都に送りました。耳塚はそれを供養するために造られた塚です。 寛永元(1624)年に来日した通信使副使姜弘重(カン・ホンジュン)は翌年正月17日に大仏を訪れ,耳塚を見て深く心を痛めており,また『洛陽名所集』巻四は「高麗人来朝のおりは,此塚を見て,かならず落涙すときこえぬ,げにその時うたれし人の末なるもおほしとぞ」と記し,朝鮮通信使の耳塚参拝があったことを物語っています。 |