本圀寺跡 下京区堀川通五条下る柿本町
寛永13(1636)年以降,通信使は,享保4年(1719)の本能寺宿泊を除けば,すべて本国(圀)寺を宿舎として京都に滞在しています。
通信使は,本国寺から松原通を東に入り室町通まで行き,室町通を今度は北に三条通まで上がり,三条通を東へ折れ,東海道の入り口である三条大橋から江戸へと向かいました。
江戸からの帰路においては,三条通から縄手通(大和大路)を南へ下って方広寺大仏殿前を通ります。これは享保9年(1724)まで大仏殿前で対馬藩主主催の招宴があったためであり,大仏殿からの帰路は,五条通(現松原通)まで北上して,寺町通→四条通→室町通→松原通の順で本国寺に入ります。
宿館であった本国寺は,当代の文化人にとっては格好の交流の場であり,寛永14(1637)年に通信使が江戸からの帰りに立ち寄った際,漢詩人の石川丈山(いしかわじょうざん,藤原惺窩<ふじわらせいか>門人)が当寺を訪れ,一行の書記である権(ウォン・シク,号菊軒)と筆談や詩文の応酬を行っています。
この本国寺は,貞享2(1685)年より水戸藩主徳川光圀(みつくに)の庇護を受け,寺名を「本圀寺」に改めたと伝えており,昭和46年には,山科区御陵大岩の現在地に堂舎を移しています。
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