京の名水
文化史14

きょうのめいすい
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水の都 京都

 京都は大小の河川などの豊富な水に恵まれ,様々な文化を育んできました。地名にも「御池」(おいけ)「堀川」(ほりかわ)「今出川」(いまでがわ)「清水」(きよみず)など,水に関するものが数多く残っています。住みにくい気候である京都盆地に千年近く都が存在したのは,ひとつに質の良い豊富な水があったからといえるでしょう。

 『日本外史』などで知られる江戸後期の儒学者頼山陽(らいさんよう,1780〜1832)の書斎は,東山を眺望でき,鴨川に臨むところから「山紫水明処」(さんしすいめいしょ)と呼ばれていました。水蒸気により山が紫にかすみ,川はあくまでも清らかに流れる,山紫水明は水の都京都を象徴する言葉です。

 また,幕末の都市風俗を記した喜田川守貞(きたがわもりさだ)の『守貞漫稿』(もりさだまんこう)には,

  京都は水性清涼万国に冠たり。
  故に飲食の用皆必井水を用ひ然も河水亦万邦に甲たり。
  鴨河の水衆人の称する所也

とあります。滝沢馬琴(たきざわばきん,1767〜1848)も『羇旅漫録』(きりょまんろく)の中で

  京によきもの三つ。女子,加茂川の水,寺社

と言っており,江戸時代にはすでに,京都は水の清き所というイメージを持たれていたことがわかります。

 またそのイメージを利用して18世紀の中頃には,鴨川の水を樽詰めにして大坂に送り,お茶や化粧用などに売る賀茂河水弘所(かもがわみずひろめところ)という店がありました。江戸中期の博物家である木村蒹葭堂(きむらけんかどう,1736〜1802)の『諸国板行帖』(しょこくはんこうじょう)に引札(宣伝用のチラシ)が残っています。

「賀茂河水弘所」引札
市街地の移動

 京都御苑の周辺は,梨木神社(なしのきじんじゃ)の染井(そめのい)に代表されるように現在でも地下水が豊富なところです。これは広大な未舗装地である御苑があり,なおかつ鴨川の伏流水が地下の砂礫層で濾過されて湧き出るためで,昔から比較的浅い井戸で多量の水を手に入れることができました。

 一方で,平安時代に大内裏(だいだいり)があった現在の千本通り附近は,地下水脈が深く水質も良くありませんでした。平安京の東部である左京に,人々が多く住み街を形成していった理由に,この水質の違い,そして井戸掘りの容易さがあげられると思います。最終的に鴨川のすぐ西の地に御所や公家屋敷が移動してきたのも,そこが京都で最も水質の良い土地であったからとも考えられます。

京都の食文化と水

 現在でも京都では,良質な井戸水を利用した豆腐・湯葉・生麩などの生産が盛んです。井戸水が上水道に比べて食品加工業に適している理由は,水温・水質が1年を通じてほとんど変化しないことです。これは安定した製品の供給には不可欠な要素です。

 豆腐は禅僧が中国から日本にもたらしたものです。中国の豆腐は堅く締まったものでしたが,京都の水と出会い,水分を多量に含んだ柔らかな豆腐が生まれました。

 湯葉も鎌倉期に禅僧が日本にもたらしたもので,室町初期の『遊学往来』(ゆうがくおうらい)には「豆腐上物」(とうふうわもの)として登場します。京の名産品として知られ,精進料理などに多く用いられてきました。

 麩は室町時代以降一般に普及し,江戸初期の『毛吹草』(けふきぐさ)では京都名産にあげられています。丸太町通から五条通までを南北に貫く麩屋町通(ふやちょうどおり)は,二条の辺りに麩屋が多くあったことからその名が付きました。

 いずれの食品も,大寺院や茶の湯といった文化的基盤を背景に成立したものですが,豊富で良質な水が存在してはじめて生まれたものだといえるでしょう。

京の酒造り

 「松の酒屋や梅壺の柳の酒こそすぐれたれ」と歌に詠まれた柳の酒は,室町時代に一世を風靡した洛中の酒です。五条坊門西洞院の中興(なかおき)という姓の土倉も営む酒屋が製造していました。一時期は,幕府が賦課する酒屋土倉役の10分の1以上を負担するほどの富商でした。

 江戸時代に入ると,京の酒造りの中心地は輸送に便利な伏見に移動します。伏見は,江戸時代から明治にかけて「伏水」(ふしみ)と書いたほど水の豊かな町でした。酒造りもこの豊富な水をもとに発展しました。

 伏見に酒造りの基礎が築かれるのは,秀吉・家康の伏見城の築城,そしてその後の城下町の発展の頃です。酒造株の制度ができた明暦3(1657)年,伏見には酒造家が83軒あり,その製造石数は1万5000石あまりでした。ただその後幕府は酒造を制限する政策をとり,伏見の酒造業は幕末には苦境におちいります。

 明治に入ってからも鳥羽・伏見の戦いでダメージを受けましたが,明治22(1889)年の東海道本線の全通にともない東京市場に参入,陸軍第十六師団が伏見に置かれる明治41(1908)年頃には生産量も増加し,伏見の酒は全国的に有名なものになりました。

 伏見には現在,40軒ほどの酒造会社があり,その販売量は全国の約10パーセントを占めています。

麦酒醸造所
清水寺音羽滝近くにあった麦酒醸造所

 明治維新後,西洋技術を導入した勧業政策を推進していた京都府は,その一環として舎密局を通じて,ビールの製造に乗り出します。府の殖産興業政策を担当していた明石博高(あかしひろあきら,1839〜1910)は,清水寺音羽滝(おとわのたき)の水質の良さに目を付け,明治10(1877)年に麦酒醸造所を設立しました。しかし,ビールが当時の日本人の嗜好に合わず,同14年に閉鎖されました。

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醒ヶ井(佐女牛井) 下京区堀川通五条下る西側
佐女牛井之跡

 もともとは源氏の六条堀川邸の井戸でした。村田珠光(むらたじゅこう,1423〜1502)が足利義政(あしかがよしまさ)に献茶した際に使用したと伝えられています。その後も,武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休(せんのりきゅう),織田有楽斎(おだうらくさい)といった名だたる茶人に愛用され,天下一の名水と有名になりました。しかし,第2次大戦後の堀川通の拡張のため埋められ,現在元の井戸の附近には「佐女牛井之跡」の石標が立っています。

 また,堀川通の一筋東を走る醒ヶ井通や,附近の醒泉小学校(せいせんしょうがっこう)は,この井戸から名前がとられました。現在,四条醒ヶ井にある和菓子屋亀屋良長(かめやよしなが)では,社屋改築の際に湧いた豊富な地下水を醒ヶ井と名付け,菓子の製造に利用しています。

芹根水(せりねのみず) 下京区堀川通木津屋橋附近
芹根水

 芹根水は堀川の脇にあった湧き水で,宝暦年間(1751〜64)に書家松下烏石(まつしたうせき)が寄進した井筒で囲まれ,かたわらには彼が「芹根水」と刻んだ石標も立っていました。その水は茶人・文人に好まれましたが,井戸は徐々に枯渇し,井筒や石標もいつしか見えなくなりました。その後,石標は昭和57年に発掘され,現在は旧安寧小学校(あんねいしょうがっこう)西側の地に立てられています。

天の真名井(あめのまない) 下京区市姫通下寺町東入(市比売神社内)

 清和天皇から後鳥羽天皇まで27代の間,御産湯へこの水を加えたと伝えられています。また足利将軍家も代々産湯神として崇敬してきました。

鉄輪井(かなわのい) 下京区堺町通松原下る西側路地奥

 謡曲「鉄輪」で知られる,夫の浮気を恨んで貴船に丑の刻詣りをした女が使っていた井戸。婚礼の行列はこの前を避けるともいいます。

染井(そめのい) 上京区寺町通広小路上る染殿町(梨木神社<なしのきじんじゃ>内)

 もともとこの辺りには摂政藤原良房(ふじわらのよしふさ,804〜72)の邸宅,染殿がありました。梨木神社は,萩の花の名所としても知られています。

観世水(かんぜのみず) 上京区今出川大宮西入(西陣中央小学校内)

 観世稲荷社の傍らにある名水。この地にはもともと能楽観世家の邸宅がありました。観世流の衣装に見られる渦巻紋は,この井戸の水面にできる波紋によるといわれています。

柳の水 中京区西洞院通三条下る東側

 千利休が茶の湯に用いたもので,井戸のそばに柳を植えたためこの名で呼ばれるようになりました。柳は,その後この地に屋敷を構えた織田信雄(おだのぶかつ)が植えたとも伝えられています。

 江戸初期に,将軍徳川家光(とくがわいえみつ)に呼ばれて江戸へ行った松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)が,柳の水でないと筆が乗らないと言って家光の一筆の頼みを断りました。家光は家臣を密かに京にやって柳の水を汲み,もう一度頼むと,昭乗はただちに筆をとったので周囲が感嘆したという話が伝わっています。

 附近は現在,柳水町(りゅうすいちょう)といいます。なお,現在の井戸は新たに掘り下げられたものです。

菊水井(きくすいのい) 中京区室町四条上る東側

 この地にあった茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)の邸宅,大黒庵の手洗水の井戸と伝えられていましたが,現在はありません。祇園祭菊水鉾の名前の由来はこの井戸です。

音羽滝(おとわのたき) 東山区清水一丁目(清水寺内)
音羽滝

 「清水寺」の寺号の由来にもなっている音羽滝は,古くから霊水として有名で,和歌や謡曲などに多く詠まれました。戦国時代に描かれた「清水寺参詣曼荼羅」(さんけいまんだら)や「洛中洛外図屏風」(上杉本)などに現在と同じ3本の筧や,滝に打たれる行者が描かれています。近世にはお茶の水として,また湯浴み用の水として有名でした。

息つぎの水 左京区鞍馬本町

 鞍馬寺本殿金堂の奥にあり,牛若丸(源義経<みなもとのよしつね>)が武術の稽古のあいまにのどを潤したという伝説が残っています。

亀の井 西京区嵐山宮町(松尾大社内)

 中世以降酒造りの神様として信仰を集めてきた,松尾大社の境内に湧く井戸です。亀は鯉とともに松尾大神のお使いとされています。酒造家の間ではこの水を酒に混ぜると,酒がおいしくなると言い伝えられています。

六孫王誕生水 南区壬生通八条上る(六孫王神社<ろくそんのうじんじゃ>内)

 源満仲(みなもとのみつなか)の産湯に使用したとも,その父で六孫王と称した源経基の使用した井戸とも伝えられています。初代の井戸は新幹線の高架橋の下になってしまいましたが,現在新たに井戸が掘られました。

醍醐水(だいごのみず) 伏見区醍醐醍醐山

 醍醐寺を開いた理源大師聖宝(しょうほう)が醍醐山に登った時,ひとりの翁が現れて,湧き水を飲み「嗚呼(ああ)醍醐味(だいごみ)なる哉(かな)」と言い姿を消したという伝説が残っています。これが醍醐の地名の由来となっています。この水は現在上醍醐准胝堂(じゅんていどう)の下に湧き出ています。

御香水(ごこうすい) 伏見区御香宮門前町(御香宮神社<ごこうのみやじんじゃ>内)

 御香宮神社はもともと御諸神社(みもろじんじゃ)と呼ばれていました。貞観4(862)年に境内で清水が湧き,その水が芳しく香り,飲んだ人の病気がたちまち治ったため,社名を御香宮と称するようになったと伝えています。御香水は,環境庁が昭和60年に制定した「名水百選」に京都市内で唯一選ばれています。

キンシ正宗堀野記念館 中京区堺町通二条上る

 この地は天明元(1781)年にキンシ正宗の創業者,初代松屋久兵衛が創業した地です。酒造りの道具や看板などを展示しているほか,敷地内には「桃の井」と呼ばれる井戸があり,その水から作った地ビールが飲めます。平成12年に主屋・蔵などが国の登録有形文化財になりました。


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