|
時代祭は,葵祭・祇園祭と並ぶ京都三大祭の一つで,平安神宮の祭礼として,毎年10月22日に行われています。平安神宮は,明治28(1895)年の平安遷都千百年紀念祭に際して創設されました。「紀念」は「記念」と同じ意味で,明治の頃は主に「紀念」の文字を用いていました。 当初,平安京の基礎を築いた桓武天皇(かんむてんのう,737~806)の偉業を讃えようと,平安宮大極殿の跡地(千本丸太町周辺)に大極殿を縮小した神殿を設ける計画が出されましたが,断念,その後,平安遷都千百年紀念祭の一環として明治28年に実施される第4回内国勧業博覧会で,博覧会の紀念殿として現在地(左京区岡崎西天王町)に大極殿を復元する計画に変更されました。 しかし,紀念祭協賛会からの申し立てで,神社として神殿が建造され,神号を平安神宮(当初は平安神社)・社格を官幣大社と決定,東京の皇居から桓武天皇の神霊が遷(うつ)され祀られました。 その後,幕末に朝廷の威信回復に尽力し,京都を首都として再認識させた孝明天皇(こうめいてんのう,1831~66)も,昭和15(1940)年に合祀され,現在に至っています。 |
||
![]() 現在の時代祭は,京都御所から平安神宮を目指す祭列で,明治維新から平安時代までの20列あり,その列ごとに各時代の京都と関係の深い人物が当時の風俗に身を包む形式をとっています。 第1回は,明治28(1895)年に平安遷都千百年紀念祭の奉祝行事として,10月25日に実施されました。 その時は時代行列と呼ばれ,延暦時代の文官参朝列・延暦時代の武官出陣列・藤原時代の文官参朝列・城南流鏑馬列(やぶさめれつ)・織田信長上洛列・徳川城使上洛行列の年代順で六列が設けられ,現在と同様,平安神宮を維持するために各学区ごとに編成された崇敬団体,平安講社(へいあんこうしゃ)の人々が行列に参加しました。また,丹波国北桑田郡・南桑田郡・船井郡から山国隊(やまぐにたい,鼓笛隊)と弓箭組(きゅうせんぐみ)も参加しました。なお,衣装の考証には出雲路興通(いずもじおきみち)・碓井小三郎(うすいこさぶろう)・水茎磐樟(みずくきいわくす)などがあたりました。 この祭礼は,翌明治29年から平安神宮の祭礼となり,新たに桓武天皇の神霊を奉じる神輿の神幸列が加わり,天皇が平安京に車駕を遷した10月22日に行われるようになりました。さらに祭列は,山国隊・弓箭組を先頭に,徳川城使上洛列から時代を遡り,最後に調理組と神幸列がつく現在とほぼ同じ順列となりました。こうして,第2回行列から,神輿の行列に各時代の衣装で供奉する形態が成立したのです。 大正10(1921)年,経済的理由から山国隊が参加を中止したため,平安講社の人々が,維新勤王隊と名を改めそれを継承しました。また,昭和7(1932)年には楠公上洛列(なんこうじょうらくれつ)や豊公参朝列(ほうこうさんちょうれつ)が加わりました。そして,昭和15(1940)年に孝明天皇が合祀された後,神輿が2基となりました。第2次世界大戦中の昭和19年以降,祭列は中止されましたが,戦後の同25年に復活し,同時に各時代の女人列も加えられ,さらに,昭和41年の孝明天皇百年祭以降,幕末志士列が加わりました。 現在では,祭列が18列,参加者は2000人余り,衣装・祭具は1万2000点を超えています(以上は平成15年段階)。さらに,平成19年には室町時代執政列と室町風俗列列が新たに参加し,時代祭はますます発展の様相を呈しています。
|
||
![]() 平安講社は,平安神宮と神苑,さらには時代祭の維持や崇敬者の組織化を目指して,明治28(1895)年に平安遷都千百年紀念祭協賛会幹事会が設立を提案,発足しました。 講社の組織は,当時の京都の行政区分に従い京都市上京区・京都市下京区・愛宕郡(おたぎぐん)・葛野郡(かどのぐん)の4地区を,6「社」に区分しました。なお,各社は,学区ごとの「組」から構成されています。 その後,市域の拡大に伴う学区の独立や増加などで,平安講社は拡張しました。しかし,戦後,新しい時代に適した組織への改変が求められ,一度解散し,その後再出発を行いました。 そして現在も,平安講社は時代祭の運営,さらに祭具や衣装の修理・保管などに尽力しています。 |
![]()
午前8時に桓武天皇・孝明天皇の神霊をのせた神幸列が平安神宮の楼門(応天門)を出発,京都御所の建礼門前の行在所(あんざいしょ)へと巡幸し,そこで,行在所祭が行われます。 その後,神幸列は,正午に建礼門前を出発して平安神宮へ還幸します。その際に各時代の衣装を身にまとった人々が供奉する行列が,現在私達が目にする時代祭です。 その行列は,現在では神幸列を含め20列からなり,各列の終わりには,時代の装束と関係なく,各講社の人々が沢山行列しています。
|
|||||||||
|