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ここでいう私塾とは,主に江戸時代,民間の有識者によって開設された教育機関のことをいいます。私塾は幕府や藩の統制を受けることなく塾主によって独自に経営され,その自宅を教場として用い,学問や文芸を門人に教授しました。 近世庶民の教育機関としては寺子屋がありますが,寺子屋が主に子供を対象として読み・書き・算盤(そろばん)程度の内容を教えたのに対し,私塾ではより高度な学問や文芸をあつかいました。内容は儒学を対象とする漢学塾が最も一般的でしたが,ほかにも和学や蘭学・洋学,また医学・神道・詩文など多彩な私塾があり,剣術・馬術など武芸を教授するところもありました。 |
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![]() 私塾の歴史は江戸時代初期に始まります。長い文化的伝統を持っていた京都でも,江戸時代を通して多くの私塾が栄えました。京都の私塾としては,17世紀前半,日本近世朱子学の祖藤原惺窩(ふじわらせいか)に学んだ松永尺五(まつながせきご)が開いた春秋館や講習堂が早いものです。 特にこの講習堂と,17世紀後半に伊藤仁斎(いとうじんさい)が開いた古義堂(こぎどう)とは,明治時代にいたるまで二百数十年もの間,子孫によって代々受け継がれました。天保13(1842)年には,両塾は京都の私塾の代表として幕府から表彰されています。また江戸時代中期以降には,蘭学の導入や医学の発達,和学の高揚などもあってさまざまな私塾が開設されました。 しかしその一方,江戸中期頃になると江戸の発展により京都の文化的な優位は揺らぎ始め,幕府直轄の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)の設置や藩校(はんこう)の急増,また地方私塾の成長などにより,京都の私塾は次第に衰退していきました。さらに明治時代には公的な教育制度が本格的に整備されるようになり,私塾の時代もやがて終りを迎えることになりました。 |
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![]() 江戸中期の儒学者江村北海(えむらほっかい)によれば, 凡(およ)ソ諸国ヨリ京学々々トテ京都ヘ来リ学ブ生徒,来ルア リ帰ルアリ,来去常ナシトイヘドモ,大抵一年ニ幾百ヲ 以テ数フベシ (『授業編』天明元<1781>年序) といい,当時は地方から毎年数百人もの生徒が修学のために上洛していたことがわかります。 京都での手づるを持たずに遊学してくる人々にとって,どの学者に入門すべきかという手引き書となったのが『平安人物志』です。その初版凡例には「此の編の作,他邦の人,京師(けいし)に遊学する者の為に輯(あつ)む」とあって,本文には京都に居住する文化人の姓名・字号・住所・俗称などが紹介されています。 同書は何度も版を改めて内容を刷新しており,
の計9版を数えました。ただし京都の学問的中心という役割が衰えると,入門案内というより京都の文化人名鑑という意味を持つようになったといわれています。 なお,こうした入門案内の類似書として,京都で開業する医師の姓名や門流,および内科・外科などの担当科を列挙した『良医名鑑』(りょういめいかん)『天保医鑑』(てんぽういかん)『洛医人名録』(らくいじんめいろく)などがあります。これらはまた,患者が名医を求めるための資料としても利用されました。
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![]() (開塾年代が不明の場合は開塾者の生没年を( )で示した)儒学
医学
和学
詩歌
(『京都府の教育史』附表をもとに作成) |
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松永昌三(まつながしょうさん,1592~1657)は尺五(せきご)と号し,父は歌人として名高い貞徳(ていとく)です。尺五は藤原惺窩(ふじわらせいか,1561~1619)に師事し,寛永5(1628)年に漢学塾春秋館を開き,寛永14(1637)年,この地に京都所司代板倉重宗の援助で講習堂を開塾しました。この翌年には後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)より自筆の扁額を下賜されており,また後光明天皇からは堺町御門前の土地を下賜され,尺五堂を建てています。尺五の門弟は5000名にもおよんだといわれ,講習堂は松永家が代々継承して明治時代にいたりました。現在,その跡にあたる地に石標が建てられています。 なお,松永昌三の墓は妙恵会(みょうえかい)総墓所(下京区柿本町)にあります。 |
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![]() 山崎闇斎(やまざきあんさい,1618~82)は,はじめ京都で仏門に入りましたが,儒学者野中兼山(のなかけんざん)の眼に止まって土佐へ移り,同じ儒学者の谷時中(たにじちゅう)に師事して儒学を学びました。やがて帰京した後,明暦元(1655)年には自宅で講席を開きました。現在,その跡にあたる地に石標が建てられています。 闇斎は江戸に遊学して会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)らの知遇を得るなど精力的に活動し,晩年には神道へ関心を寄せて,儒学と神道を合一した垂加神道(すいかしんとう)を唱えたことでも知られています。 なお,闇斎の墓は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ,左京区黒谷町)にあり,下御霊神社(しもごりょうじんじゃ,中京区寺町通丸太町下る)には闇斎を祀った垂加社(すいかしゃ)があります。 |
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伊藤仁斎(1627~1705)は京都の商家に生まれ,歌人里村紹巴(さとむらじょうは)の孫を母として,豪商角倉家(すみのくらけ)とも縁戚関係にあった人物です。 仁斎は朱子学を学びましたが,後に批判的となり,本来の孔子の教えに戻るべく古義学派(堀川学派)を創始して,寛文2(1662)年,当地の自宅に古義堂を開きました。古義堂には公家・武家・町人にわたる多数の門弟が訪れて隆盛を見せ,松永家の講習堂と並ぶ京都の私塾の代表的存在となっており,伊藤家が代々継承して明治時代にいたりました。ちなみに,この地は山崎闇斎の私塾と堀川を挟んだ向かい側にあたります。 古義堂は,天明8(1788)年の天明の大火をはじめ幾度も火災に見舞われ,現存する建物は明治27(1894)年に再建されたものですが,2階建土蔵造の書庫は仁斎時代のものが現存しています(国指定史跡)。現在,塾跡と邸宅を示す石標が建てられており,仁斎ら歴代の当主が遺した著作や蔵書は,天理図書館に古義堂文庫として収められています。 なお,仁斎の墓は二尊院(にそんいん,右京区嵯峨二尊院門前長神町)にあります。 |
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![]() 堀景山(1688~1757)は儒学者堀杏山(ほりきょうざん)の曾孫で,幼少から父玄達に学んで儒医となりました。景山はこの地に居宅をかまえながら,安芸国広島藩主浅野吉長に招かれてたびたび進講しました。また国学者本居宣長(1730~1801)も,宝暦2(1752)年から同四年まで,景山のもとへ寄宿して儒学を学んでいます。 なお,景山の墓は南禅寺塔頭帰雲院(左京区南禅寺福地町)にあります。 |
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![]() 皆川淇園(1734~1807)は医者の 皆川春洞を父とし,和学者として知られる富士谷成章(ふじたになりあきら,御杖の父)は弟にあたります。淇園は特別な師を持たず,ほとんど独学で独自の学問を打ち立て,晩年の文化3(1806)年,自宅に弘道館を開きました。現在,その跡にあたる地に石標が建てられています。 また淇園は肥前国平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)をはじめ諸藩の礼遇を受けたほか,画家円山応挙(まるやまおうきょ)らとも親交を結び,詩文・書画にも秀でていたことで知られています。 なお,淇園の墓は阿弥陀寺(上京区寺町通今出川上る)にあり,その墓碑銘は松浦静山の撰文になります。 |
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![]() 香川景樹(1768~1843)は因幡国鳥取藩士の子に生まれましたが,歌道での立身をはかって上洛し,歌人の小沢蘆庵(おざわろあん)や香川景柄(かがわかげとも)に和歌を学びました。 景樹は歌壇二条派の宗家であった香川家梅月堂(ばいげつどう)の養子に迎えられましたが,後に離縁されて独立し,明治時代まで歌壇の主流となる桂園派(けいえんは)を創始しました。享和3(1803)年には岡崎に住居を移し,その後ここは桂園(かつらのその)と呼ばれて桂園派の拠点となりました。 なお,景樹の墓は聞名寺(もんみょうじ,左京区東大路通仁王門上る)にあります。 |
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新宮凉庭(1787~1854)は丹後国由良(ゆら,京都府宮津市)の医家に生まれ,伯父に医学を学んだ後,長崎へ遊学して西洋医学を修養しました。やがて帰郷の後,文政2(1819)年には京都で開業,京都随一の流行医となりました。 天保10(1839)年,凉庭は私財を投じ,当地に医学校兼図書館の順正書院を設立して,内外科ほか8学科を定めて体系的な医学・儒学教育を行いました。 この順正書院は明治時代にいたるまで維持され,現在は料亭順正として当時の遺構がほぼ残されているほか,玄関には京都所司代間部詮勝(まなべあきかつ)の筆になる「順正書院」の額がかかげられています。 なお,凉庭の墓は南禅寺塔頭天授庵(てんじゅあん,左京区南禅寺福地町)にあります。 |