京都のキリシタン遺跡
文化史16

きょうとのきりしたんいせき
印刷用PDFファイル
 
  【目次】
    知る

    歩く・見る
※画像をクリックすると大きい画像が表れます

   知る

京都に残るキリシタンの遺跡

 京都とキリシタン(キリスト教)の歴史は,天文18(1549)年に薩摩に上陸し,天文19年12月に堺を経て入洛したフランシスコ・ザビエル(1506〜52)に始まります。ザビエル以降も多くの宣教師が入洛し,京都を中心とした地域で布教活動が行われ,織田信長(1534〜82)の保護によって浸透を深めていきます。

 この時期に作られたキリシタンの遺跡として,京都には,墓碑や欧風の鐘などが現存していますが,それら以外の遺跡の多くは,豊臣秀吉(1536〜98)の追放令や江戸幕府の禁令によって迫害を受け破却されました。

宣教師と京都
「南蛮寺扇面図」の一部
神戸市立博物館蔵「洛中洛外名所扇面図」

 ザビエルが日本全土の布教許可を得るために入洛したのは,天文法華の乱後十数年,都は復興の途上にあったとはいえ,すでに幕府は事実上崩壊していた時代で,室町幕府第十三代将軍足利義輝(あしかがよしてる,1536〜65)は少数の家臣をつれて郊外の北白川に逃れており,後奈良天皇の朝廷も衰えていました。ザビエルが都の大学として期待していた比叡山延暦寺をはじめ京都の諸寺院も世俗化し,戦乱の渦中にまきこまれていました。

 失意の中,滞在わずか11日で離京したザビエルの後,京都布教に着手したのは,ガスパル・ビレラです。

 当時,京都の人々はキリシタンに対して無理解でしたが,入洛から1カ月が過ぎ,堺のキリシタン医師パウロが紹介した建仁寺永源庵主の手引きで,妙覚寺に将軍義輝を訪ねることができたビレラは,この接見をきっかけに公然と町人に説教をはじめました。そしてビレラは,当時京都に勢力を張る三好長慶(みよしながよし)や松永久秀(まつながひさひで)との交渉も行い,永禄3(1560)年のはじめには,将軍に再び謁見,布教の許可を得たのです。

 永禄4(1561)年,京都市内に最初の礼拝堂が建設されますが,相次ぐ戦乱で,礼拝堂は荒廃,布教事情もなかなか好転しませんでした。しかし,比叡山を焼き討ちした織田信長の入京によって事態は一転,信長は仏寺の勢力を抑制する意図もあってか,当時来京していたオルガンティーノら宣教師たちを厚遇しました。この信長の保護によって,新たに教会(南蛮寺<なんばんじ>)や礼拝堂が建設され,京都でのキリシタン伝道事業は絶頂期を迎えたのです。

バテレン追放令

 このように戦国時代末から宣教師や信者の努力により繁栄にむかった京都のキリシタンでしたが,天正15年(1587)に発せられた豊臣秀吉のバテレン追放令により追放と迫害の時代をむかえることになります。

 この追放令の動機については,さまざまな説がありますが,一つには,キリシタン信者の団結が一向一揆と同様に専制権力にとって脅威となるために発せられたと言われており,これによって京都市中の宣教師は追放され,南蛮寺は破壊されました。

 ただし,宣教師・信者に対する大規模な迫害は,慶長元(1596)年に始まります。この年9月,土佐に着岸したイスパニア船サン・フェリぺ号がイスパニアの侵略の先鋒だとみなされ,その影響で京都においてフランシスコ会の26人の宣教師らが捕らえられ,長崎へ護送され,処刑されました。これは「二十六聖人の殉教」と呼ばれ,迫害の背後には,日本布教をめぐるポルトガル系イエズス会とイスパニア系フランシスコ会の対立があったともいわれています。

江戸時代の禁教

 江戸時代におけるキリシタンの禁止は,慶長17(1612)年の禁教令にはじまります。徳川政権は当初キリシタンに対して寛大な態度を示していましたが,カトリックの国々への国土侵略の疑惑から禁教に踏み切ります。この慶長17年の法令は幕府直轄領のみを対象としたものでしたが,翌慶長18年にはその効力を全国におよぼす禁教令が出され,以後,この禁教令が明治6(1873)年にいたるまで継承されます。

 京都に禁教の波動がおよぶのは慶長18年のことです。当時の京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)は,キリシタンへの同情から前年の禁教令を厳しく施行することを躊躇していました。しかし,江戸から上使として大久保忠隣(おおくぼただちか)が派遣され,弾圧の指揮をとることになると,忠隣は,当時京都の西の郊外を中心に散在していたキリシタン寺院(教会)を焼き払い,信者に拷問を加え転向をせまったのです。

 この江戸幕府による最初の弾圧は,慶長19年の大坂冬の陣勃発までつづきましたが,大坂の陣の戦後処理もおわった元和5(1619)年には再度の弾圧が加えられました。最初の弾圧では処刑者が出ることはなかったようですが,元和の弾圧では信者60名以上が七条河原で火刑に処されました。この処刑は「古代ローマ皇帝のネロにまさる残虐の所業」と宣教師が形容するように,京都における最大のキリシタン信徒弾圧で,これ以後,京都において公然としたキリシタンの活動は途絶えてしまいます。

上へ


   歩く・見る

南蛮寺跡 中京区蛸薬師通室町西入姥柳町(うばやなぎちょう)
南蛮寺の礎石
(同志社大学保管)

 南蛮寺(なんばんじ,キリシタン寺)とは,安土桃山時代に建設されたキリスト教教会を意味する言葉で,永禄4(1561)年,京都で最初の礼拝堂が建設されましたが,相次ぐ戦乱の中で荒廃してしまいました。

 その後,入京した信長やキリシタン大名の寄進,さらにオルガンティーノやルイス・フロイスを中心とした在京信者らの尽力により天正4(1576)年に新聖堂が落成しました。この聖堂は,当時の教会にしては珍しい和風3階建て(1階は礼拝堂・3階は住居)であり,その特異な外見は伝狩野元秀(かのうもとひで)「洛中洛外名所扇面図」(らくちゅうらくがいめいしょせんめんず)に描かれるほどでした。

 フロイス著『日本史』の記録によると,天正4年7月21日,オルガンティーノによってこの南蛮寺で初めてミサが行われました。この日はザビエルが薩摩に到着した日で,また西暦(ユリウス暦)では8月15日に相当し,聖母被昇天の日にあたります。この日を記念して教会の呼称および守護聖人は「被昇天の聖母マリア」に決められたと記しています。

 現在,この南蛮寺跡から発掘された礎石や煙管,硯などは同志社大学に保管されています。

だいうす町跡 上京区油小路通元誓願寺下る

 寛永16(1639)年に刊行された『吉利支丹(きりしたん)物語』に「京ハ五条ほり川一条あふらのこうじに大寺をたて」という記事があります。一条油小路に建立された大寺(教会)は迫害によって破壊されましたが,その跡地は「だいうす丁(町)」と呼ばれるようになり,貞享3(1686)年刊の『雍州府志』(ようしゅうふし)でも,一条油小路と堀川の間を「大宇須辻子」(だいうすのずし)と呼ぶと記しています。

 この「だいうす町」は,デウス(天主)町のなまったものといわれ,寛永年間(1624〜44)に出版された京都の絵図「平安城東西南北町並之図」をはじめ慶安版・寛文版・元禄版・寛保版などの「京大絵図」にも「たいうすのづし」とか「大うす丁」の名が残っています。これらの古絵図では油小路一条上る西入が「たいうす丁」であると示されています。この他にも,寛文5(1665)年刊の『京雀』(きょうすずめ)では現在の下京区若宮通松原上る菊屋町に,寛永版および慶安5(1652)年版の「平安城東西南北町並之図」によると現在の下京区岩上通四条下る佐竹町に,それぞれだいうす町があったと記しており,いずれの地もキリシタン寺院跡であろうと推測されます。

キリシタン墓碑
キリシタン墓碑

 キリシタンの墓地は,長い禁教の時代にほとんどが破壊されて,その痕跡をとどめていませんが,墓碑のいくつかが,京都市内から発見されています。

 墓石の種類は,立石を用いた日本式の「光背型」と石を横にした欧風の「かまぼこ型」の2種があり,碑の正面には,クルス(十字架)や教会の紋章(IHS=Iesus Hominum Salvator〈イエスは人類救済者〉)など信仰の象徴と俗名・教名などを刻み,命日は,日本年号と「霊のさんたまりやの祝日」「さんおのりよの日」などという教会暦とで表しています。

 現在,発見されている墓碑は,合わせて20基で,ほとんどに慶長の年号が刻まれており,それぞれ京都国立博物館・京都大学総合博物館・京都市歴史資料館に保管されています。特に京都国立博物館のものは,庭園内にあり,常に公開されています。

キリシタン燈籠

 近世茶庭の発生にともなって,庭に石燈籠を用いることが起こり,旧来の社寺系燈籠を流用するほかに,新しく庭系燈籠が案出されました。その一種に織部燈籠と名付けられる形式があり,古田織部(ふるたおりべ,1544〜1615)の考案といわれますが確証はありません。

 この形式は竿の上部が左右に円形に張り出した点に特色のある四角型石燈籠で,現在知られる初期のものは慶長20(1615)年の銘があり,元和・寛永のものも数基残されています。その後,茶庭に好まれて諸方に作られましたが,大正末年ごろからこれを潜伏キリシタンの礼拝物とする説がうまれました。竿の張り出しを十字架の変形とし,そこに時々刻まれる意味不明の記号めいたものをキリシタンに関係づけ,下方に長身像のあるものを宣教師像などと称しますが,何ら具体的な根拠はありません。

 石燈籠研究家はこの竿が地輪部を長くした板状五輪塔から発生したものと考えており,キリシタン文化の研究者も,キリシタン燈籠説は信じていません。このキリシンタン燈籠は,京都では,北野天満宮や桂離宮,また,北区紫野大徳寺町の孤篷庵(こほうあん)などに現存します。

南蛮寺の遺鐘 右京区花園妙心寺塔頭 春光院(しゅんこういん)
南蛮寺遺鐘

 京都の南蛮寺の一つにかけられていたと考えられる鐘は,現在,妙心寺塔頭の春光院に伝わっていっており,国の重要文化財に指定されています。

 このヨーロッパ風の銅製の鐘には,イエズス会派の紋章とおぼしき十字架とIHSの文字が鋳刻され,さらに「1577」とも刻まれています。大きさは高さ約60センチメートル,重さ68キログラムほどのもので,どこで鋳造されたかは不明ですが,春光院の寺伝ではポルトガルで作製されたものと言われています。

近代のキリスト教復興

 明治6(1873)年,禁令の高札(こうさつ)が撤去されてキリスト教が解禁になると,多くの外国人宣教師が来日し,折から明治維新の社会的変動にあたり,西洋文化の一環として,キリスト教は人々に受け入れられていきました。

 カトリック 京都における復興は,明治12(1879)年のビリヨンの活動にはじまります。仮聖堂は下京区問屋町五条,三条高倉と移り,同23(1890年,河原町三条にフランシスコ・ザビエルの聖堂(現河原町カトリック教会)が奉献され,以後次第に諸教会が設立されます。

 プロテスタント 明治5(1872)年,ギューリックやベリーが伝道を始め,同8年に新島襄(にいじまじょう)が山本覚馬(やまもとかくま)と同志社英学校を創立しました。同9年には,京都最初のプロテスタント教会が3つ設立され,以後,同志社・平安・京都教会などが組合教会となりました。

 聖公会 京都伝道は同22(1889)年チングによって始められ,同28年ウィリアムズが京都に来住,ついで大阪の照暗女学校(しょうあんじょがっこう)を上京区下立売通烏丸西入に移転,平安女学院と改めて開校し,同31(1898)年,同学院内に三一大聖堂(さんいつだいせいどう,現アグネス教会)が奉献されました。

 ギリシャ正教会 明治11(1878)年に京都で最初の受洗を行い,同22年には中京区押小路高倉西入に講義所が設立されます。同36(1903)年,京都ハリストス正教会大聖堂が中京区柳馬場通二条上るに奉献され,以後,この教会が西日本における布教活動の中心となりました。


上へ