手島堵庵(てじまとあん)
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前訓聴聞の図。男子と女子では席が別々ですが,同じ講師からいっしょに講釈を聞きました。 |
梅岩亡き後,石門心学の中心的存在となったのが手島堵庵(1718〜86)です。堵庵は京都の商家に生まれ,18才で梅岩の門に入ります。44才の時に家督をその子和庵(かあん)に譲り,以降は心学の普及につとめました。
梅岩を,真理を求める求道者的存在とするならば,堵庵は庶民を教え導く指導者的存在でした。そして,組織の改革や教化方法の改善に手腕を発揮しました。
明和2(1765)年には富小路通三条下るに,最初の心学講舎である五楽舎(ごらくしゃ)を設立しました。さらに安永2(1773)年,五条通東洞院東入に脩正舎(しゅうせいしゃ)を,安永8(1779)年,今出川通千本東入に時習舎(じしゅうしゃ)を,天明2(1782)年,河原町通三条に明倫舎(めいりんしゃ)をそれぞれ開設しました。これらの講舎は,その後組織化していく心学教化活動の中心的存在となっていきました。
また,女性だけの特別講座や,年少者のために日中行う「前訓」(ぜんくん)という講座を開きました。そこでは俗語を用いた講話や,心学の教訓を歌であらわした道歌が用いられ,庶民に広く受け入れられました。
その結果,民衆に広く受け入れられた心学は,天明・享和(1781〜1804)の頃には,京都を中心に社会的一大勢力に発展しました。その背景には,都市部における寺子屋の定着によって,教育の必要性が庶民に浸透したことが挙げられるでしょう。ただ一方で,梅岩の思想の哲学的側面は薄れ,その教えは平易で単純なものになっていきました。
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