伊藤春畝詩碑HI160 |
いとうしゅんぽしひ |
公爵伊藤博文(号春畝,1841〜1909)自作の七言律詩を表に記し,裏面には建立の経緯を記す。伊藤と井上馨は明治42(1909)年に木戸孝允(1833〜77)の三十三回忌列席のため来京。伊藤が木戸の墓所に詣でて作った七言律詩を中井慈眼に示したところ,中井が伊藤・井上の詩碑を東山に建立することを発意し建設された。井上馨の詩碑はこの碑の東方にあり姉妹碑とでもいうべきものである。 中井慈眼(1851〜1932)は中井三郎兵衛と称し,三条東洞院で紙商を営んだ人物。府会議員・市会議員をつとめ明治京都の実業界で重きをなした。かたわら京都を観光都市として発展させるために東山の開発に尽力した。中井は近くの将軍塚の大日堂を明治41年に建立し,この碑一帯の整備にも意を注いだ。 |
所在地 | 東山区清閑寺清水上山町 |
位置座標 | 北緯34度59分56.8秒/東経135度47分05.4秒(世界測地系) |
建立年 | 1910年 |
建立者 | 中井慈眼(中井三郎兵衛) |
寸 法 | 高320×幅170×奥行30cm |
碑 文 | |
[北] | |
詩以可興 (印)【印文「邦彦」】【以上篆額】 | |
追懐往事感無窮三十三年夢寐 | |
中顔色威容今尚記名声輿望 | |
古誰同蕭曹房杜忠何比蜀相楠 | |
公義暗通墓畔題詩新緑桜山 | |
鵑叫尽血痕紅 祭松菊公墓 | |
博文(印)(印)【印文「萬古雲霄一羽毛」「勲業頻看鏡行蔵独倚楼」】 | |
右春畝公七律係展松菊公墓 | |
時作書示中井翁者後改第 | |
五句曰玄齢如晦忠何比未遑浄 | |
写而一朝遭害頃者翁嘱余書其 | |
由嗟乎公曠代偉人詞翰亦優入 | |
名家之域矣庚戌七月矢土勝之(印) | |
[南] | |
春畝伊藤公遺詩碑陰記 | |
中井慈眼翁夙尽力於京都勝区名刹之保存大増風致 | |
其功不少今夏届松菊木戸公三十三回忌辰春畝伊藤 | |
公来祭其墓賦詩以奠翁将刻其詩於石建諸東山以使 | |
四方遊客賞風致并景慕二公勲業久邇宮賛其挙賜篆 | |
額翁請余記其由于嗟春畝公距此祭未一歳遭難満洲 | |
而薨豈可不惜哉雖然公実紹松菊公遺業更盛大之後 | |
之頌春畝公恐不譲公之頌松菊公則此一詩謂並頌二 | |
公亦可矣遊客感誦奮興安知不出二公後勁哉則此一 | |
碑不止増東山風致也 明治四十二年己酉十一月 | |
東宮侍講正四位勲二等文学博士三島毅撰 | |
勢南布衣矢土勝之書 | |
設計監督安田時秀 | |
彫刻芳村茂承 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2012年9月28日 |
備 考 | 篆額は久邇宮邦彦王書/伊藤没後に出版された詩集『藤公詩存』(1910年博文館刊)には「己酉五月題松菊先生墓」と題しこの詩を載せるが矢土勝之識語にいうとおりの修訂がほどこされている/建碑に関連する文書に国立国会図書館憲政資料室井上馨関係文書の「東山国有林中建碑願 中井三郎兵衛」(712-14)がある/なおこの碑の趺石(台座)に刻まれたという文章の稿本が残っているが現在の趺石には刻文は認められない/中井の小伝『かたばみ草』(1934年刊)には山県有朋を招き挙行された本碑の除幕式(明治43年11月21日)の写真を載せる |
位置図 | |