義士遺髪復旧碑

YA097

ぎしいはつふっきゅうのひ
石碑(0029143)石碑周辺(0029144)

 瑞光院はもと上京区堀川頭今宮御旅所下る瑞光院前町に所在し,現在地へは昭和37年に移転。江戸時代初期に因幡国若桜藩主(のち讃岐国丸亀藩主)山崎家が一寺を建立,藩祖山崎家盛(1567〜1614)の院号瑞光院殿から瑞光院と命名された。明暦3(1657)年に山崎家が廃絶すると瑞光院もまた廃寺となった。のちに播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩(1665〜1701)の妻が瑞光院二世陽甫宗隣と叔父姪の間柄で,かつこの地が遠祖浅野長政の邸宅地であったことから,浅野家の武運長久祈願寺として再興された。元禄14(1701)年の松の廊下事件で長矩が切腹したのち,院主宗湫禅師は赤穂藩家老大石良雄と謀りその衣冠を境内に埋めて供養塔を建てた。浪士切腹ののち,その遺髪は境内に埋められ,上に遺髪塚が建てられた。しかし文政年間に火災に遭い荒廃に帰し,有志により仮殿が建てられた。再興されたのは嘉永6(1853)年のことである。以上同寺の履歴は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958年京を語る会刊)に依拠するところが大きい。
 この碑は,明治43年に京都府師範学校が瑞光院の赤穂義士遺髪塚に桜を寄進し,植樹するとき土中から遺髪が出てきた。これを元のとおり遺髪塚へ戻した経緯を記した碑である。

所在地山科区安朱堂ノ後町(瑞光院内)
位置座標北緯34度59分57.0秒/東経135度49分08.2秒(世界測地系)
建立年1913年
建立者能勢規
寸 法高75×幅26×奥行20cm
碑 文
[北東]
義士遺髪復舊之記【篆額】
往年範黌職員進一桜樹栽之
塔北時土中獲壷壷破髪出則
為義士之遺髪明矣黄梅院主
今茲欲*之碣下以復其旧余
乃膺其任焉因略記其由刻石
以立之於碣側以#来者
[南西]
大正癸丑夏
   京都 能勢規建
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調 査2012年7月11日
備 考この碑の北隣に遺髪塚がある/瑞光院遺躅碑(YA097)小野寺十内室丹子招魂碑(YA098)大石遺愛梅(YA100)の義士関係碑が隣接している/相互の位置関係はここをクリック


碑文中「*」字  碑文中「#」字  

位置図
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