長栄丸移据の由来UK111 |
ちょうえいまるいきょのゆらい |
長栄丸は若狭国と北海道との間を定期運航していた千石船であったが,転売されて大正14年に地元の実業家篠田幸二郎の邸内の庭園に移された。昭和14年に庭園と千石船は京都市に寄附され,庭園は児童公園となり,千石船は一般に公開された。なお,戦後になって千石船は老朽化し撤去された。この碑はかつてこの地に置かれていた千石船長栄丸のいわれを記すものである。 |
所在地 | 右京区太秦野元町(千石荘公園内) |
位置座標 | 北緯35度00分30.3秒/東経135度42分45.7秒(世界測地系) |
建立年 | 1926年 |
建立者 | 清水庵主人(篠田幸二郎) |
寸 法 | 高125×幅135×奥行20cm |
碑 文 | |
[南] | |
長栄丸移据の由来 | |
此船は長栄丸と称して籍を若州遠敷郡に有し表高八 | |
百七十五石実際は千石則ち四万貫目を積載し日本海 | |
の怒濤を蹴つて遠く北海道に定期航海をなし其都度 | |
万円以上の収益を上げたる功労抜群の船なり | |
抑我徳川幕府の治世には千石積以上の造船を厳禁し | |
たれば物資供給交通利便の権威者としては千石船を | |
以て最となしたり明治の中興に至り和船航海の不利 | |
に鑒み三百石以上の和船建造を禁ぜられたれば大和 | |
大型の船は自然廃滅に委するの姿となり当時彼尨大 | |
を以て誇りし千石船も近き将来に於ては全く其影を | |
没するに至るべし想ふに我京都の如き四方皆山の地 | |
にありては船舶を見ることすら罕なるをまして千石 | |
船の如き其実際を知ること最も難し余適々長栄丸を | |
見其雅趣の津々なるを愛す而して其船主の他に移ら | |
んとするを聞き若し此船を陸に上げ其命を保たしめ | |
ば一は船の偉績を存し一は市人の参考に資するを得 | |
んと終に進んでこれを求め此地に移据することゝは | |
なりぬ乞ふ曳*の士よ余が徴衷を酌み船を山に登せ | |
し愚挙をして徒為たらざらしめ賜はんことを | |
大正丙寅仲春 | |
清水庵の主人誌す | |
調 査 | 2012年4月10日 |
備 考 | 2012年に千石荘児童公園が千石荘公園として再整備され碑も移設された/旧データはここ/清水庵主人の名については,『昭和12年 京都市電話帳』『右京 区制五十周年記念誌』(1982年),『葛野学区創立二十周年記念誌 葛野』(1992年)などによる/『京都日出新聞』昭和14年10月25日付夕刊に,千石船と庭園が京都市へ寄附されたという記事を載せる/明治天皇歌碑(UK136)および瑞典皇太子同妃殿下御台覧記念碑(UK137)と並び立つ/上記3碑はいずれも千石荘児童公園内に建てられていたが公園再整備にあたり現在地へ移設されたものである |
碑文中「*」字 |
位置図 | |