東方斎荒尾先生碑

SA248

とうほうさいあらおせんせいのひ
石碑(0029332)石碑周辺(0029333)

 東方斎荒尾精(1859〜1896)は明治期の陸軍軍人。日本・清国提携による東アジアの安定を唱えた。清国内を広く旅行し,その知見により日中貿易の必要性を説き,アジア独立自存の「先覚者」とよばれた人物。明治23(1890)年,上海に人材養成のため日清貿易研究所を設立した。この研究所が明治34年上海に設立された東亜同文書院の前身である。この碑は荒尾が日清戦争期に隠棲した若王子の地に建立された顕彰碑である。

所在地左京区若王子町
位置座標北緯35度00分55.6秒/東経135度47分45.5秒(世界測地系)
建立年1916年
建立者(故旧同士及門人)
寸 法高330×幅130×奥行42cm
碑 文
[南]
東方斎荒尾先生之碑【篆額】
荒尾先生之碑
      貴族院議長従二位勲三等公爵近衛篤麿撰
      清光禄大夫尚書銜陝甘総督升允製銘并書
荒尾君諱精初名義行号東方斎尾州枇杷島人也考諱義済世仕尾州藩著名於時君幼而沈毅有大志年十二入外国語学校又受経芳野金陵之門夜則学剣講武明治十一年」
入陸軍教導団翌年任陸軍軍曹入大阪鎮臺十三年入陸軍士官学校十五年冬畢業任陸軍少尉先是君在士官学校按中外図史観東西国勢以謂西力東漸若河決下流東亜」
旧邦之命辟之一髪引千鈞脣亡而歯寒*破而虞危此豈我儕優游之時乎因慨然有救済志及畢業乞暇遊清以不得命未果十九年春乃由上海溯長江深入内地時少壮慕志」
来会者有二十餘人君與分道四出南極#粤$黔西入秦隴巴蜀北窮蒙古伊犁之彊東渉満州三省之野崎嶇間関備嘗艱苦久之拠其身自経歴及獲同人探討者悉得禹域九」
州形勢於是相謀創日清貿易研究所於上海二十二年四月君東帰告諸朝野議者曰東亜之計莫善乎聯日清両国合其心力以為富強久遠之規其事権輿於通商顧両国通商」
之未盛者非無物可貿遷無人能経紀也誠能於清国要津開一大学堂講習商務以造成人才豈非当今急務耶時相黒田松方諸公皆%其言而岩村農商務大臣尤以為有補商」
政約為設法給経費君乃遊説府県招募生徒明年四月適有勧業博覧会之挙商工輻湊都下乃開日清貿易研究会大招府県紳董臚列彼我百貨俾老事者数人指示需給之多」
寡販運之利害君亦登場演説日清通商之款竅慷慨淋漓移&始罷当此時挙世滔滔心酔泰西文物偶一談及清事輙目之為迂一朝君倡西力東漸東亜危急之説也所在官民」
傾聴感悟始注心目於東亜時局他年国計民生豫為前定不¥不困者実君為之地也既而府県子弟応募進京者三百餘君為考試取優才篤志者百五十人別@教導才得二十」
餘人九月到上海挙開教儀経営累月将漸就緒而度支常∞艱窘万状岩村大臣又以疾去官不得履給費之約而君意気加鋭纔立苟完計衆心恟恟不保朝夕君乃推赤誠定衆」
志汰職員節経費尋移校舎挙創立記念之儀於是紀綱重張校運復振又開編纂局修清国通商総覧拠同人積年所蒐集参以古今著録数十種督衆員分部校定期年而成二十」
五年夏哥老会匪滋擾江上上海洋人日夜£怖各結団備不虞独研究所教学自如不肯附和洋人怒愬之我領事君乃貽書団帥曰研究所者聚千金子弟授千金学術之学堂也」
師弟心力不敢軽與他事抑自知宜尽同舟之義果有警急我師弟自当独力従事中外士商聞之咸知邦人尚義浸加敬畏云二十六年七月研究生畢業即開日清商品陳列所令」
生員習実務尋欲設東方通商協会併合研究陳列二所拡張規模推広事業其所期一則収回東亜商権二則協輯両国和好万一中外有事則居間解紛以省国際争議之煩也時」
首相伊藤伯聞之大悦欲以提議帝国議会君乃歴説政党首領大隈板垣品川三氏並得賛同加以海内紳商千餘人為之創立員区処粗定提議有日而議会解散事竟未行朝鮮」
乱起隣好遂破君上疏具陳敵国情勢攻伐善後方略薦故旧門生二百餘人於大本営任偵候通訳等事而自退居於洛之若王子山力図誘掖後進造就通才和議既定出遊清国」
視戦後情状逾月而還屡会朝野有力者盛説日清商工同盟之急又欲遊臺湾視南門鎖鑰経鹿児島大島琉球至臺北時新旧吏民情意未洽彼此交疑動相乖離君為設紳商協」
会以融和之将遂巡視全島以及福州廈門香港会鼠疫大行先発三日病六日卒実明治二十九年十月三十日也君生於安政六年四月某日享年三十有八君於東亜時事見機」
察微知無不言億則屡中当隣隙初啓也著対清意見将議和也著対清辯妄各書及見構和約条之有所妨也親臨全国商工大会俾以利害建白於政府見韓廷再擾也勧当路定」
対韓要策凡其所謀雖不尽用於当時而其所慮無一不験於後日焉君既卒清韓二邦変故百出強隣環伺陵邀万端大局安危靡所戻止中外志士益服君見機之早慮患之遠而」
深惜其志業之不終近者清国懲多難興革変通取範於我禦侮捍患倚重於我凡我朝野同憂之士及與君有旧者方且追君遺志並効力於持危扶顛之策而輔車之勢将以成」
矣天若假君以年使得乗此機運経綸大局其所貢献於邦家者未可限量也奈何苦其心志労其筋骨空之其身払乱其所為又従而奪之年徒使其卒然死於窮荒之域瘴癘之郷」
而不知其死之有関於世運之安危興廃也悲夫
   銘曰   扶桑旧邦   明治維新   篤生俊人   親仁善隣   兄弟鬩牆   外禦其侮   非我族類   奇技奚取」
            形上者道   形下者器   長治久安   惟徳興義   常人従衆   哲士前知   誕告多方   視此豊碑」
[北]
大正五年六月   故旧同志曁門人等建立
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調 査2014年2月12日
備 考 撰文者として名を挙げている近衛篤麿は東亜同文会会長として東亜同文書院設立に尽力したが,碑が建てられた大正5年にはすでに故人(明治37年没)。井上雅二『巨人荒尾精』(1910年佐久良書房刊)の冒頭には明治35年の年記で記されているから,生前に準備された碑文であるという形式をとっている/碑文が実は荒尾精の友人で臨終に際し看病した退帚内村邦蔵の作であることは『退帚遺稿』(1941年立命館出版部刊)に収めることにより判明する。現碑に刻む文と『退帚遺稿』所収「東方斎荒尾君之碑」には異同は見られない。ただし『退帚遺稿』は銘を省く。この両者と『巨人荒尾精』所収の碑文とはパラグラフの順序,および前者に前文「荒尾君深憂東亜大勢…竟不敢以不文辞」168字が附加されているという異同がある


碑文中「*」字  碑文中「#」字  
碑文中「$」字  碑文中「%」字  
碑文中「&」字  碑文中「¥」字  
碑文中「@」字  碑文中「∞」字  
碑文中「£」字  

位置図
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