東方斎荒尾先生碑 碑文の大意 |
荒尾氏,名は精。初めの名は義行。東方斎と号した。尾張国枇杷島の人。父の名は義済。代々尾張藩に仕え,著名な人物であった。荒尾氏は小さい時から落ちついて剛毅な性格で大きな目標を持っていた。十二で外国語学校に入り,かたわら芳野金陵に学び,夜は武道を鍛錬した。明治十一年陸軍教導団に入り,翌年陸軍軍曹に任じられ大阪鎮台に勤務した。同十三年陸軍士官学校入学。同十五年卒業し陸軍少尉に任じられた。 士官学校在学中にさまざまな情報に接しこう考えた。「西洋の力が東亜(東アジア)へ及んだのは,川が決壊し水が流れ出すようなものでとどめることができない。東亜諸国は運命を共にして,たとえば髪の毛一本で大きなおもりをぶらさげるような危うい情勢である。ぐずぐずしている時ではない」。ここに東亜を救うこころざしを持った。 卒業後,軍務を離れ清国に旅行しようと思ったが許可されなかった。やっと明治十九年春に上海から揚子江をさかのぼり深く清国内へ入った。この時に同志を募り,集まった二十名を四方面に分けて大陸のすみずみに派遣し,自分の経験と同志の探索をあわせてその現状を知ることができた。そこで上海に日清貿易研究所の創立を企画した。明治二十二年四月に帰国し,広く遊説しいわく「東亜の将来は日清両国が協力して富強になることにかかっているが,これにはまず貿易がたいせつである。両国間の貿易が活発でないのは物がないからではない。また人材がないからでもない。清国の主要な港湾都市に学校を設け,商業貿易を教え人材を養成すればことが急務である」と。 黒田(首相)や松方(蔵相)ら時の政府首脳はみなその説を支持した。岩村農商務相は商業政策に有益だと,制度を設け経費を支出することを約束したので,荒尾氏は各府県から生徒を募集した。翌年(明治二十三年)四月に勧業博覧会が開かれ,商工業者が東京に集まった。そこで日清貿易研究会を開催し,各地の要人を招き日清両国の商品を陳列した。老練の者に説明させ,みずからも日清貿易のかんどころについて演説し,熱心さのあまり長時間に及んだ。 当時,国内の大勢は西洋の文明に心酔し,清国に関することなど時代遅れなことだとみなしていた。ひとたび荒尾氏が西力東漸東亜危急をとなえると官民ともに傾聴し,始めて東亜の現状に注意した。後年国策が定まり不動のものになることの下地を作ったのである。 この時各地から日清貿易研究所の生徒に応募して上京した者は三百人いた。荒尾氏は試験を行い優れた者を百五十人選び,別に指導力を持つ者二十餘人を選んだ。九月に上海におもむき開校した。数か月を経てようやく軌道に乗ろうとしたところで財政難に苦しんだ。岩村大臣も病気で辞任し,経済支援の約束を果たすことができなかった。しかし荒尾氏の意気は衰えなかった。事業の貫徹をおろそかにしては,人心がおさまらず学校も崩壊する。そこで誠意をもって方針を定め,職員に経費節減を命じ,次に校舎を移転し創立記念式を挙行した。ここに日清貿易研究所は立ち直ったのである。また編纂局を設置し『清国通商総覧』を編輯した。これは同志が長年集めた資料に依拠し,古今の書物を参考にし,部門を分けた共同作業で,一年で完成した。 明治二十五年夏,哥老会の暴徒が揚子江沿岸に跋扈し,上海の外国人はこれを恐れ団結して万一に備えた。日清貿易研究所だけは普段と変わらず教学を続け参加しなかった。外国人は怒って日本領事に訴えた。荒尾氏は外国人団長に手紙を送り「研究所は将来ある若者に重要な学術を授ける学校である。師弟は学問以外の事には軽々に関与させない。上海在住の者は利害を同じくするということはよく理解している。万一の事があればわが師弟も独力防禦に当るものである」と説いた。在留民はこれを聞き日本人の信義に感心したという。 二十六年七月に研究生が卒業したら,日清商品陳列所を開設し卒業生実習の場とした。続いて東方通商協会を設立し,研究所と陳列所を合併,事業を拡大しようとした。その目的は,第一に東亜の商権を恢復すること,第二に日清両国が和合協力し,国際紛争があれば仲介し争議のわずらわしさを省くことである。 この時の首相伊藤伯爵はこの企画に大いに賛同し,帝国議会に提案しようと考えた。荒尾氏は政党党首大隈・板垣・品川の三氏に説き賛同を得た。国内の商業家千餘人を発起人として提案を定めていたが,そのうち議会が解散し実行できなかった。 朝鮮の動乱から日清戦争が起きると,荒尾氏は天皇に上疏し,敵国の情勢や戦略について述べ,旧門下生二百餘人を大本営に推薦し偵察通訳等にあたらせた。みずからは京都の若王子山に勇退し後進の指導育成につとめた。 日清講和が成立したあと清国に旅行。戦後の情況を視察し翌月に帰国した。なんども官民を問わず有力者と会談し日清商工同盟を結成することの急務を説いた。また台湾におもむき,日本南端の要所を視察しようと,鹿児島,大島,琉球を経て台北に着いた。時に日本領となったばかりで日本人と台湾住民との間はしっくりいかず,ともすれば疑惑の目でおたがいを見ていた。荒尾氏はこの弊害を除くために紳商協会を設立し融和させようと思った。全島を巡覧しそれから福州,廈門,香港へ行こうとしたところ,流行していたペストに罹り,出発三日前に発病し,病むこと六日にして死去した。明治二十九年十月三十日のことである。荒尾氏は安政六年四月に生まれ享年三十八であった。 氏は東亜の情勢に関して理解が行き届き,知ったことは言わずにおれなかった。その私見はたびたび的中した。清国と初めて利害が衝突した時に「対清意見」を,講和会議にあたっては「対清辯妄」をそれぞれ公にした。講和条約が日清融和の妨害になると思い,全国商工大会の席上,利害を主として政府に建白した。韓国政権内で事変(乙未事変)が起きると,政府要人に対韓国政策を定めることを勧めた。これらさまざまな建言は,発表当時は用いられることがなかったが,後日にその正しさが証明されたものばかりである。 荒尾氏没後,清国と韓国には事変が続出し,外国から侵略され,国情が安定することがない。全国の有志は荒尾氏の先見の明にますます敬意を抱き,彼が志を果たし得なかったことを惜しんだ。 近年清国では変革にはわが国を模範とし,防衛にはわが国に依頼するところが多い。わが国朝野の同志および荒尾氏と旧交のある者は,氏の遺志に従い清国を援助しようと尽力し,日清両国の協力関係が結実しようとしている。もし荒尾氏が生きていたら,この機運に乗じ腕をふるい,いくらでも国家に貢献できたであろう。しかし心身ともに苦労した甲斐もなく,南方の辺境に没し,その死が世界の興亡に関係したかどうか知ることができなかったのは悲痛なことである。 |