崇道神社碑SA221 |
すどうじんじゃのひ |
崇道神社は現在は崇道天皇(早良親王)を祭神とする、いわゆる御霊社である。しかし,この地は古代氏族出雲氏・小野氏の勢力範囲であり,境内の山中に小野毛人の墓があり墓誌が出土している。本来は出雲氏や小野氏の氏神が祀られていた地域だと考えられている。 この碑は大正天皇即位大礼を期に建立されたもので,崇道神社の地は古代氏族出雲氏・小野氏の祭祀の地であったが,のちに御霊信仰が盛んになると,出雲氏の氏神高野出雲社は崇道天皇を祀る社になり,明治維新後も本来の姿に復しなかったという沿革を記している。 碑文の撰者内藤湖南(京都帝大教授)は大正3年に行われた小野毛人墓の調査にも京都帝国大学の一員として参加し関心を持った。その後「近畿地方に於ける神社」という大正8年の講演筆記で同社の淵源と小野氏との関係について自説を述べている。 なお碑陰に記された「友達中」は明治11年12年生れの村民による氏子組織である(上高野史蹟顕彰会編『崇道神社』1985年崇道神社刊)。 |
所在地 | 左京区上高野西明寺山(崇道神社内) |
位置座標 | 北緯35度03分54.9秒/東経135度48分01.7秒(世界測地系) |
建立年 | 1915年 |
建立者 | 愛宕郡高野村有志 |
寸 法 | 高330×幅120×奥行20cm |
碑 文 | |
[南] | |
崇道神社之碑【題額】 | |
山城愛宕郡高野村崇道神社之碑 | |
上古之事方策不備往々取徴於神社而氏族盛衰動輒廟易主社絶祀非好学深思心知其意何能得」 | |
其沿革之故哉延喜式載山城愛宕郡有出雲高野神社及出雲井於神社蓋並古出雲氏所崇祀於其」 | |
食邑出雲氏衰小野氏以孝昭之胤大徳妹子又有渡海専対之功跨有城江愛宕之小野郷見於和名」 | |
類聚鈔延喜式又有小野神社二座亦在高野村延暦奠都 廷旨尤崇加茂両社於是出雲井於神社」 | |
及小野神社並折而見摂於下加茂矣中世已還神祇失官両部習合之説張而 先王神道設教之意」 | |
荒有出雲寺者為御霊社祝所謂八所御霊最重崇道天皇於是併出雲高野社改祀御霊称曰崇道神」 | |
社延喜式又有伊多太神社今高野村西林*鬱然乃其旧址亦旧出雲氏所祀今已合於崇道社於是」 | |
崇道社儼為高野村総社焉明治維新崇敬神祇諸所施為多因延喜旧文而酌定之惟高野之崇道社」 | |
遂不復於古然村中尸祝与農戸倶厳事総社猶出雲氏之遺又慶長中社後山崩出小野毛人朝臣墓」 | |
志毛人者妹子々也大正四年官定為国宝亦蔵於崇道社於是出雲小野二氏之鬼与八所御霊皆獲」 | |
血食於一社歳時脩祭虔粛無二嗚呼是合於 先王設教之意者非耶今茲 朝廷行即位儀蒸嘗之」 | |
礼一遵古制村民仰体 盛旨欲効報本之誠於総社雕劉楽石求文於予因作銘曰」 | |
湛酒於罍盛粢於豆歌呼羞之以求神佑稲粱充羨里庶且富癘疫#熄人康而寿弓弭之貢手未之調」 | |
勿怠勿替助祭宗廟悦懌民誠弗爽施報降格民旁神徳之邵」 | |
大正四年十一月 文学博士内藤虎次郎撰并書 | |
[北] | |
いろは順 | |
井口五右衛門 中川徳右衛門 | |
友 井口新左衛門 屋代仁三郎 | |
井口治兵衛 二股車寅 五十川卯之助 | |
達 井口寅吉 二股徳之丞 区長 | |
井口弥三郎 佐竹与三次 井口又兵衛 | |
中 井口武一 木村■次郎 石工 | |
神岳四郎右衛門 木村金之助 中山末吉 | |
中村丑之助 清水弥右衛門 | |
菅原新右衛門 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2008年1月21日 |
備 考 |
碑文中「*」字 | |
碑文中「#」字 |
位置図 | |