崇道神社碑 碑文の大意
 むかしの事は文献が不十分で,神社の所伝に拠って考えるところが多い。しかし神社を奉じる氏族にも盛衰があり,そこをよく考えないと誤ることがある。  延喜式には,山城国愛宕郡に出雲高野神社と出雲井於神社の両座を載せる。どちらも古代氏族の出雲氏がその領地に祀った神社である。のち出雲氏は衰え,小野氏がかわってこの地を支配した。
 平安遷都後は朝廷は賀茂社を尊崇し,これらの古代氏族の氏神は賀茂社に帰属させられることになった。その後神仏習合の説が盛んになり,古い祭祀は廃れていった。御霊信仰が起きると出雲高野神社は八所御霊のひとつである崇道天皇(早良親王)を祀る社と化して,地元高野村の総社になった。
 明治維新で,延喜式に載るような古い神社はむかしの姿に復したが,崇道神社はそのままにおかれた。小野毛人の墓が発見され墓誌が出土し,墓誌が国宝に指定されたことで,出雲・小野二氏の氏神と八所御霊とが一つの神社にその伝統を併有することになった。こんど大正天皇即位大礼が京都で古式ゆたかに行われるに際し,村民はむかしを忘れず祭祀を続ける決意を示し石碑を建てることを決めたものである。