義民市原清兵衛君碑NI045 |
ぎみんいちはらせいべえくんのひ |
丹波国多紀郡市原村(現兵庫県篠山市)の農民清兵衛を義民として顕彰する碑。碑文によれば,多紀郡の農民は冬期には灘で杜氏の出稼ぎをしていたが,篠山藩が出稼ぎを禁止したため,清兵衛は江戸で藩主に直訴しこの禁令を撤回させたと記す。 嵐瑞澂『市原清兵衛 義民伝』(1961年著者自刊)によれば,この碑文は地元の伝承を記したものであり事実とはみとめがたい点が多い。地元にのこされた古文書等により調査し,(1)清兵衛が江戸で直訴したのは寛政12(1800)年12月14日のことであり,碑文に記すような「宝暦天明の際」ではない。(2)出稼ぎ禁止令ではなく,資格や期限の制限令である。(3)監物河原に集まり気勢をあげたのは明和8年の多紀郡大一揆の時のことである。以上3点が主要な誤りだという。同書によれば清兵衛は市原村の小農で,文政3(1820)年ごろに64歳で没したと推測している。 建碑者の柴田幸三郎は東京で「金釜正宗」という銘柄の酒を販売した,いわば立志伝上の人物。奥田楽々斎『多紀郷土史考』(1958年多紀郷土史刊行会刊)によれば,最初篠山城近傍の王地公園に建立しようとしたが,地元の反対にあい,酒造神である京都松尾大社に建立したという。 |
所在地 | 西京区区嵐山宮ノ前町 |
位置座標 | 北緯35度00分01.0秒/東経135度41分14.7秒(世界測地系) |
建立年 | 1919年 |
建立者 | 柴田幸三郎ほか |
寸 法 | 高300×幅180×奥行22cm |
碑 文 | |
[北西] | |
義民市原清兵衛君之碑【題額】 | |
正二位勲一等伯爵土方久元題額 | |
丹之多紀冬時多雪不利耕耘故民皆出於摂之灘為酒家保虚而往盈而 | |
来是以家給人瞻富甲于他郡其所由来旧矣而所負于市原清兵衛之義 | |
者多矣宝暦天明際青山侯之新移封于篠山也頻年不稔謂封内之民冬 | |
時出作不専於農是其所致也乃厳禁其出作于外民忽失業物情騒然遂 | |
聚于監物磧沙上偶語変将不測清兵衛市原村人慨然制衆戒其軽挙乃 | |
以死自誓数詣藩廷哀訴不省時侯為幕府老中于役江戸清兵衛有所決 | |
窃懐訴状要侯輿于途奉状乞哀侯始知之直解禁衆情始安而清兵衛則 | |
以犯上之罪伝送繋於篠山獄幽囚数年始遇赦時民之納賦于上以粟斛 | |
五升当斛大極困弊清兵衛憫之又欲訴之窃出郷終不知所終或曰為吏 | |
所害云而当時人皆憚侯家不敢口之事跡湮滅幾不可知東京柴田君幸 | |
三郎奇傑之士也而隠于商賈醸于灘而販于京者有年焉恨清兵衛之義 | |
而不伝就郡之故老訪求尤力大感其義窃謂灘之地酒家比屋歳加殷盛 | |
者皆負於多紀之民者居多而其能得来保者実清兵衛義所使也徳報之 | |
功表之豈可已乎哉乃説同業醵金貿石謀伝諸不朽来乞銘 | |
任侠舎身 彊禦不畏 活一郡民 貽百歳利 今日之隆 | |
将誰之賜 堙没斯人 寔有負義 豊碑百尺 永感義類 | |
大正八年十一月建之 浪華 藤澤南岳撰 | |
東京 柴田 魯書 | |
東京群鶴玉鐫 | |
[南東] | |
碑陰記 | |
明治三十五年余始 | |
與丹波小野藤介翁 | |
相識于御影談偶及 | |
清兵衛事余感激窃 | |
矢建碑以弔冤魂大 | |
正元年遣翁于丹波 | |
討探事跡者数次漸 | |
得審実四年翁臨歿 | |
特遺命姪小野清七 | |
氏嘱余建碑之事今 | |
漸得果其宿諾乃鐫 | |
其由于碑陰以報翁 | |
生前之志云 | |
篠田幸三郎誌 | |
【以下は「碑陰記」の下に記されるが便宜上左の位置に配した】 | |
会頭 前田正名 | |
発起人 | |
安藤新太郎 | |
下岡忠治 | |
松本誠之 | |
泉 仙介 | |
柴田幸三郎 | |
多紀郡 小林常三郎 | |
有志者 | |
森田治郎吉 | |
大西官三郎 | |
大西忠太郎 | |
古家後兵治 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2014年1月14日 |
備 考 | 西芳寺南へ五町【道標】(NI011),洛西用水竣工記念碑(NI046),松尾村道路元標(NI047)と並び立つ/石工として名を記す「群鶴」は東京下谷の名工八世広群鶴のことで京都市内では非常に珍しい |
位置図 | |