義民市原清兵衛君碑 碑文の大意
 丹波国多紀郡は冬には雪が多く農作ができない。そこで農民はみな摂津国灘の酒造家に杜氏働きに出て,稼いで帰郷し家計を助けている。このため多紀郡は丹波国の他郡よりも豊かであるとみなされている。こうした慣習の由来するところは古い。この慣習は市原清兵衛の正義感に負うところが多いのである。
 大名青山家が(丹波国亀山から)篠山へ移されると,宝暦天明のころ毎年不作が続いた。篠山藩では,農民が出稼ぎに行き農業をおろそかにするからこうなるのだと決めつけ,農民が外へ働きに出ることを禁じた。農民は業を失い騒然となった。そして監物河原に集まり協議を始め何が起きるか予測できない事態になった。
 清兵衛は市原村の人であったが,不測の事態を恐れ軽挙を戒めた。そこで清兵衛は決死の覚悟で何度も藩庁へ哀願におもむいた。その時,青山侯は幕府の老中をつとめ江戸に滞在していた。そこで清兵衛は決心し,訴状をふところにして江戸へ行き,青山侯の登城を待ち受けて直訴した。侯は禁令のことを始めて知り,ただちに撤回させたので農民も納得したのである。しかし清兵衛は直訴の罪で篠山へ送り返された。篠山の獄につながれること数年で釈放された。
 そのころ,篠山藩では年貢米一石について五升余計に農民から徴収していた。このため農民は苦しめられていた。清兵衛はこのことをまた直訴しようと郷里を出発したが,行方不明になった。役人に殺されたという人もいる。当時は藩主をはばかり,だれも清兵衛のことを口にしなかったので,清兵衛の事跡はわからなくなってしまった。
 東京の柴田幸三郎さんは気骨の人である。酒屋を営み灘で作った酒を京都で販売することを長年もっぱらにして,気骨あるところを人には見せなかった。この人は清兵衛の義挙が伝えられていないことを惜しみ,土地の故老に教えてもらいその詳細を知ったのである。そこで,灘の酒造業者が繁昌しているのは多紀郡の人々のおかげである。その根源は清兵衛の功績によるところが大きい。その人徳と事績をあきらかにせずにはおられようかと考えた。そこで同業者から募金し,石碑を建てて後世に伝えようと,わたし(筆者藤沢南岳)に銘を依頼した次第である。【銘略】
【碑陰】
 明治35年にわたし(柴田幸三郎)は丹波の小野藤介さんと神戸の御影で知りあいになった。話がたまたま清兵衛のことにおよび,わたしは感激のあまり石碑を建てて清兵衛を弔うことを心に誓った。
 大正元年,小野さんを数回丹波へ派遣し事績を調査してもらい,ようやく清兵衛の事績の詳細が判明した。大正4年,小野さんは没するに際し甥の小野清七さんを介し,わたしに碑を建てることを依頼した。いまはじめてその遺志を果たすことができたので,この経緯を碑の裏面に記し,小野さん生前の志にむくいるものである。