恋塚碑

MI023

こいづかのひ
石碑(0027705) 石碑周辺(0027706)

 北面の武士遠藤盛遠は叔母衣川殿の娘で渡辺源左衛門尉渡の妻袈裟を摂津国渡辺の橋供養でみそめた。盛遠は,袈裟を自分に与えなければ殺すと衣川殿を脅し,衣川殿は袈裟に事情を告げ,袈裟は盛遠に,渡を殺しさえすれば身を任せると約束した。盛遠は袈裟の手引きで渡の家へ忍び入り,渡らしい人影が寝ているのを斬り首を取ったが,帰って見ると実は袈裟の首であった。母と夫を救うために犠牲になったのである。盛遠は人の世の無常を悟り出家して文覚と名乗ったという。
 文覚は実在の人物であるが(1139〜1203),袈裟御前への横恋慕は伝説であろう。袈裟御前の首を供養したと伝える塚(現在は五輪塔)が恋塚。袈裟御前と恋塚の物語は御伽草子や浄瑠璃に盛り込まれ広がり、ついに洛南鳥羽に結び付けられ,鳥羽の恋塚として知られるようになった。この碑は恋塚と恋塚寺の由緒を記し,袈裟を貞婦として顕彰するものである。
 伏見区下鳥羽の恋塚寺にも袈裟御前の塚と伝える五輪塔があり,恋塚寺碑が立っている。

所在地南区上鳥羽岩ノ本町(浄禅寺内)
位置座標北緯34度57分30.3秒/東経135度44分35.3秒(世界測地系)
建立年正保4年
建立者永井直清
寸 法高170×幅53cm
碑 文
[西]
鳥羽恋塚者文覚為源渡妻所築也初藤盛遠眄彼婦而無道劫婦之母為媒径
母呼而告之婦念不聴則殺母不孝聴則棄夫不義噫不孝不義吾生不如死欲
以身当之乃佯諾曰請失我夫而後可以従也一夕在閨新沐而臥者即是矣我
開戸而待之盛遠約去婦還設酒与源渡相献酬使臥於奥婦自沐臥閨夜闌盛
遠果到断頭持去黎明視之則婦之首也盛遠甚哀即為僧所謂文覚是也其後
在高雄遥望埋婦之処名曰恋塚世俗所伝蓋如此嗚呼婦孝于母義于夫節于
其身雖丈夫不過此也長安大昌里之節女同日之談乎秦之懐清台以貨淮之
漂母墓以恩胡地之青塚以怨何足比之哉曹娥之孝*水女之貞其碑其名古
今不#此婦之名亦然乎彼之恋之者在色耶在節耶不可不択也浮屠之有塔
銘猶如碑碣也銘曰      吁節婦兮   惟孝惟義   石可泯兮   貞名不已
            正保四年十一月二十九日
[東]
往歳賜長岡以為我采邑其所隷之鳥羽里有恋塚古
蹟有名而無表尋其所由而知文覚之発意聞節女之
孝義不可以無表也於是刻石築塔聊記所伝聞以垂
于不朽云
         正保四年十一月二十九日
                              日向守大江姓永井氏直清
碑文の大意ここをクリック
調 査2007年9月26日
備 考劣化が激しく現在はガラスケースに入れ保存されている/ケースに入る前の恋塚碑と袈裟御前塚(五輪塔)の写真(1986年撮影)はここ/碑文下半分の剥落がいちじるしいので上記碑文は城南文化研究会編『城南』(1967年城南宮刊)に収める碑文および『林羅山文集』巻四十三所収「鳥羽恋塚石誌」と校合した


碑文中「*」字
碑文中「#」字


位置図
位置図

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