恋塚碑 碑文の大意
 鳥羽の恋塚は文覚が源渡の妻のために築いた。事の発端は,遠藤盛遠(文覚)が源渡の妻(袈裟)をみそめて,袈裟の母を脅し仲介させようとした。母が袈裟にこの事を告げ,袈裟は,要求をいれなければ母が殺されるという不孝におちいり,言うことをきけば夫に背く不義におちいる。どちらも許されないのなら自分が死ぬしかないと考えた。そこで盛遠に偽って,わたしの夫が死んだならあなたの要求に従いますと答えた。今夜湯浴みして寝室に臥しているのが夫です。わたしが門を開けておきます,と答えた。
 盛遠が約束して 鳥羽の恋塚は文覚が源渡の妻のために築いた。事の発端は,遠藤盛遠(文覚)が源渡の妻(袈裟)をみそめて,袈裟の母を脅し仲介させようとした。母が袈裟にこの事を告げ,袈裟は,要求をいれなければ母が殺されるという不孝におちいり,言うことをきけば夫に背く不義におちいる。どちらも許されないのなら自分が死ぬしかないと考えた。そこで盛遠に偽って,わたしの夫が死んだならあなたの要求に従いますと答えた。今夜湯浴みして寝室に臥しているのが夫です。わたしが門を開けておきます,と答えた。
 盛遠が約束して帰ったあと,袈裟は酒を夫に飲ませて奥の部屋に寝かせておき,自分は湯浴みして寝室に臥せていた。夜がふけて盛遠が約束どおりやって来て首を切って持ち去った。夜が明けて首を見れば袈裟の首だった。盛遠は世をはかなんで僧侶になった。名高い文覚がその人である。
 その後,文覚が高雄にいた時,遙かに袈裟の首を埋めた場所を望み,恋塚という名前をつけた。世に伝えるところは以上のとおりである。
 さて,袈裟が母に孝行,夫に貞節を尽し,自身も節義を守ったのは,男でもここまでできる者はいない。中国長安の大昌里の節女の話などは比べものにならない。中国には女性を祀る墓や塚がたくさんあるが,恋塚の比ではない。孝女・貞女の行いはその名も碑も不朽である。袈裟の名もまたその類であろう。かの塚に恋をもって名づけるのは,色欲を言うのであろうか節義を言うのであろうか。おろそかに判断するなかれ。


 わたし(永井直清)は乙訓郡長岡(現京都府長岡京市)を領地に賜わり今に至るが,その内の鳥羽の里に恋塚の古蹟がある。名のみ伝わり碑はなかった。その来歴を尋ね,文覚の発意によるものであることを知り,また節女の孝行を聞き,石碑が必要だと思った。そこで石碑を建て塔を築くことにした。表に伝え聞いたことを記し,永久に恋塚の名が伝われと望む。