防長藩士崇忠碑

HI173

ぼうちょうはんしすうちゅうのひ
石碑(0029380)石碑周辺(0029381)

 仲恭天皇陵西隣の地は慶応4(1868)年正月,鳥羽伏見戦で戦死した石川厚狭介外長州藩及び支藩の藩士48名の墓石が並ぶ戦没者招魂場である。この碑は戦死者の忠節を顕彰するものである。

所在地東山区本町十五丁目
位置座標北緯34度58分27.2秒/東経135度46分34.9秒(世界測地系)
建立年
建立者
寸 法高152×幅66×奥行35cm(除く車石基壇)
碑 文
[南]
崇忠之碑【題額】
明治元年正月の戦にいたくはたらきて深草の露と消え淀川の泡と失ににし健夫等か」
墓所を此処とさため巖根木根払ひ清めて亡魂を招祭れるは天下の大政鎌倉に」
うつりてより七百年を経て再ひ      天皇か朝廷にかへり朝日子の照栄あるか如く望月の」
みちたらへる如き大御世の安御代となれる是皆健夫等かいそしみ勤めし功によれるを戚てな」
りけりあはれ此役や吾軍薩摩の軍と共に呉竹の伏水の里白鳥の鳥羽の畷に出て都に入むとする賊を」
坊き遏めき賊は其数いと多く御方は其数いと少してくらへらるへき勢にはあらさりしかと各力の限を尽し国を」
出立し時吾公の仰せおきはつるは今日の為そ額をは討砕かるとも背をは賊には見せしと互に誡めいましめられ」
つゝ両所に屯したりし賊をこと@@く討破て浪華まて追下りけるに賊ともいみしくをち恐れかしこまり得とゝまらて」      【@@は仮名二字の畳字記号】
さしも名高き大城をいて紀国のかたに落ゆきぬそも@@さきつ年よりこなたこゝかしこにて      朝廷の御為に命失へる」
者いとさはなるを所にこそあれ健夫らか都を枕に討死してかく      朝廷よりの御幣を給はり公よりの手向を享るは」
身の後の栄えにあらすやこれをしも羨さらん者をのこにして男子にはあらしとやいはまく故歌ていはく鴨川の」
みつくかはねと身をなして清き名あけし健夫等あはれ     藤原芳樹識
調 査2014年4月5日
備 考碑文の撰者はおそらく長州藩士で有職家近藤芳樹(1801〜80)/本碑および鳥羽伏見戦防長殉難者墓(HI028)防長藩士墓所【道標】(HI115)維新戦役忠魂碑(HI171)維新戦役防長藩士墓【道標】(HI172)は防長藩士東福寺招魂場関係碑

位置図
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