佐藤継信・忠信墓HI150 |
さとうつぐのぶ・ただのぶのはか |
この碑およびHI040佐藤継信・忠信塚碑,HI151佐藤政養招魂碑,HI152佐藤文褒翁碑の4基の碑は,いずれも佐藤政養(さとう・せいよう)という幕末から明治初期の技術官僚に関係するものなので,4基をまとめて解説する。 佐藤政養(1821〜77)は出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ,地元で蘭学を学び,江戸へ出て勝海舟の門に入った。海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び,のち海軍伝習所翻訳方にとりたてられた。以後海舟の代理者として活動した。 明治維新後は新政府に用いられ,鉄道(現東海道線)敷設の調査にあたり,以来日本の鉄道建設を技術面で支えた。 4基の碑が立つこの地には,もともと平安時代末の武士佐藤継信・忠信の墓と伝える2基の十三重石塔があった。継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣だったが,藤原秀衡の命で源義経につき従い平家と戦った。この石塔はそのひとつに永仁3年(1295)の銘があり,それからしても継信・忠信の墓とは考えられない。しかし,承応3年刊「新板平安城東西南北町并洛外之図」に「たゝのふつきのふ石たう」と記されるのをはじめとして,江戸時代の刊行京都地図にはかならず記載がある。また『都名所図会』『花洛名勝図会』には詳細な図で描かれ,洛東の名所として知られていた。しかし戦後すぐにこの地から撤去され,現在は京都国立博物館庭園に並び立っている。本石塔については川勝政太郎「馬町十三重塔の考察」川勝『京都石造美術の研究』(1948河原書店)に詳しい。 佐藤政養は継信・忠信兄弟を自分の先祖としてこの地を買い取り,明治6年,十三重石塔の横に本碑を建て,さらに同9年に父文褒の功績を顕彰した佐藤文褒褒翁碑(HI152)を建立した。 明治10年に政養が没したあと,翌年遺族によりこの地に佐藤政養招魂碑(HI151)が建てられた。さらに昭和2年に佐藤政治郎により,十三重石塔および政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚(HI040)が建てられ現在に至る。 |
所在地 | 東山区渋谷通東大路東入北側 |
位置座標 | 北緯34度59分33.5秒/東経135度46分32.3秒(世界測地系) |
建立年 | 1873年 |
建立者 | 佐藤政養 |
寸 法 | 高235×幅25×奥行17cm |
碑 文 | |
[東] | |
嗣信 | |
佐藤 之墓 | |
忠信 | |
[南] | |
明治六年十二月 佐藤政養建 | |
[西] | |
(未確認) | |
[北] | |
(未確認) | |
調 査 | 2011年7月28日 |
備 考 | 解説で掲げた4基の碑の位置はH040が渋谷通に面して路地の入口に立ち,それから北へ15メートル路地を入ると左手にH150,右手の石の瑞垣をめぐらした壇の上にHI151(西)とHI152(東)が立つ/佐藤政養の出身地である山形県遊佐町は,2013年に関係碑の敷地を買収し周辺を整備した |
位置図 | |