佐藤継信・忠信墓

HI150

さとうつぐのぶ・ただのぶのはか
石碑(0029026)石碑周辺(0029027)

 この碑およびHI040佐藤継信・忠信塚碑HI151佐藤政養招魂碑HI152佐藤文褒翁碑の4基の碑は,いずれも佐藤政養(さとう・せいよう)という幕末から明治初期の技術官僚に関係するものなので,4基をまとめて解説する。
 佐藤政養(1821〜77)は出羽国飽海郡升川村(現山形県遊佐町)に生まれ,地元で蘭学を学び,江戸へ出て勝海舟の門に入った。海舟の従者として長崎の幕府海軍伝習所に学び,のち海軍伝習所翻訳方にとりたてられた。以後海舟の代理者として活動した。  明治維新後は新政府に用いられ,鉄道(現東海道線)敷設の調査にあたり,以来日本の鉄道建設を技術面で支えた。
 4基の碑が立つこの地には,もともと平安時代末の武士佐藤継信・忠信の墓と伝える2基の十三重石塔があった。継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣だったが,藤原秀衡の命で源義経につき従い平家と戦った。この石塔はそのひとつに永仁3年(1295)の銘があり,それからしても継信・忠信の墓とは考えられない。しかし,承応3年刊「新板平安城東西南北町并洛外之図」に「たゝのふつきのふ石たう」と記されるのをはじめとして,江戸時代の刊行京都地図にはかならず記載がある。また『都名所図会』『花洛名勝図会』には詳細な図で描かれ,洛東の名所として知られていた。しかし戦後すぐにこの地から撤去され,現在は京都国立博物館庭園に並び立っている。本石塔については川勝政太郎「馬町十三重塔の考察」川勝『京都石造美術の研究』(1948河原書店)に詳しい。
 佐藤政養は継信・忠信兄弟を自分の先祖としてこの地を買い取り,明治6年,十三重石塔の横に本碑を建て,さらに同9年に父文褒の功績を顕彰した佐藤文褒褒翁碑(HI152)を建立した。
 明治10年に政養が没したあと,翌年遺族によりこの地に佐藤政養招魂碑(HI151)が建てられた。さらに昭和2年に佐藤政治郎により,十三重石塔および政養招魂碑の所在を示す佐藤継信・忠信塚(HI040)が建てられ現在に至る。

所在地東山区渋谷通東大路東入北側
位置座標北緯34度59分33.5秒/東経135度46分32.3秒(世界測地系)
建立年1873年
建立者佐藤政養
寸 法高235×幅25×奥行17cm
碑 文
[東]
         嗣信
佐藤            之墓
         忠信
[南]
明治六年十二月   佐藤政養建
[西]
(未確認)
[北]
(未確認)
調 査2011年7月28日
備 考解説で掲げた4基の碑の位置はH040が渋谷通に面して路地の入口に立ち,それから北へ15メートル路地を入ると左手にH150,右手の石の瑞垣をめぐらした壇の上にHI151(西)とHI152(東)が立つ/佐藤政養の出身地である山形県遊佐町は,2013年に関係碑の敷地を買収し周辺を整備した

位置図
位置図

上へ

[HOME]