元慶寺再興碑

YA092

がんけいじさいこうのひ
石碑(0027813)石碑周辺(0027814)

 元慶寺は貞観10(868)年に陽成天皇の誕生に際し,遍照(816〜90)が発願し藤原高子(清和天皇の后・陽成天皇実母)が創建した。元慶元(877)年に国家公認の寺である定額寺となり,年号を取って寺名とした。その後衰微したが,安永8(1779)に再興された。この碑は元慶寺の沿革と再興の経緯を記す。なお,元号としての「元慶」は通常「がんぎょう」と読むが,寺名は現在では「がんけいじ」と読んでいる。

所在地山科区北花山河原町(元慶寺内)
位置座標北緯34度59分17.9秒/東経135度48分03.4秒(世界測地系)
建立年寛政元年
建立者元慶寺再興第二世釈亮雄
寸 法高124×幅50×奥行28cm
碑 文
[東]
元慶寺再興碑【篆額】
勅願所華頂山元慶寺再興碑記
僧正遍照者初為良峯宗貞弱冠仕  承和之朝官至少将比壮属   帝之登遐遂棄世帰」
道入 慈覚大師之室受顕密教焉   貞観帝重其徳行  勅為建伽藍山称華頂蓋比天」
台之一峰也*   元慶帝即位紀元因賜元慶寺定額歳置顕密而業度者三人特命鋳鴻鐘」
使菅公道真銘之云尋  勅遍照任僧正   仁和帝寵尤殊厚乃割江州高嶋郡官田百五」
十三町入寺更封百戸毎出入于官許乗輦車僧正尤崇密乗上表請置伝法灌頂職位  勅維」
首安然二資任阿闍梨位法席慈盛歴九十年所   寛和帝入寺剃染法諱   入覚苦修」
練行徳感神龍其後於此開灌頂壇道俗受化者尤多蓋棄輪王位而入空門者惟   帝有焉」
是其霊蹤豈可泯然爾来歴多星霜殿塔朽廃又罹兵燹終成烏有誰不慨嘆耶安永己亥先師妙」
厳和尚始有再興挙蓋遵 妙法院故一品入道堯恭親王之遺志也乃白于 官新営梵刹先師」
既没雄承其業以迄于今堂舎略備比諸往昔雖不足十之一然可以存旧名而纉遺緒矣 天台」
座主二品入道真仁親王寅奏  聖朝復為  勅願道場焉嗚乎以僧正寛平庚戌正月十九」
日#化至今正当九百載抑循環之運非耶紀之雲蓋院権僧正堯鎮随喜盛事捨昆吾三佰両以」
為資助所冀後之住之者勤学顕密教乗厳護大小戒検上以翊  皇化而酬鴻恩下以弘度門」
而利含識慎勿墜前烈以致荒廃因勒于石敢諭来者云」
寛政紀元歳次己酉冬十二月二十五日
       元慶寺再興第二世伝法大阿闍梨清浄金剛菩薩比丘亮雄謹撰
[西]
古淡海前文学伏水龍公美篆額併隷書
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調 査2008年3月12日
備 考


碑文中「*」字
碑文中「#」字

位置図
位置図

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