宇多源氏始祖追遠碑

UK140

うたげんじしそついえんのひ
石碑(0029183)石碑周辺(0029184)

 宇多源氏の始祖とされる源雅信(920〜993)追遠のために子孫が建立した碑。源雅信は宇多天皇の子敦実親王の子で、源姓を賜り臣下となった。居所から一条左大臣ともよばる。
 明治9年、明治天皇は華族制度を強固なものにするため、華族各家の系譜を調査、家系を分類し『華族類別録』を編纂させた。同分類の家が相互扶助することを目的としている。翌年、宇多源氏に分類された21家が、始祖雅信をしのび相互の親睦を誓ってこの碑を建てた。
 なお碑文中に「山城国葛野郡谷口村朱山始祖一條左大臣公之塋」(山城国葛野郡谷口村朱山は始祖一条左大臣公の墓所)という一節がある。朱山はおそらくこの碑の所在も含む龍安寺背後の山をさし、『京都府地誌』(京都府立総合資料館蔵)谷口村の条にも「一条雅信墓 朱山ニアリ」と記す。しかし『大日本史料』雅信没日記事所引『三僧記類聚』には「御室廟西ナル山上大石ソトハ者一条左大臣雅信公墓云々」と記す。また津久井清影(平塚瓢斎)『聖蹟図志』には御室八十八箇所の山中に「大岩下石槨左大臣雅信公」と記す。いずれも朱山とは違う山である御室仁和寺背後の大内山または成就山をさしている。

所在地右京区御室住吉山町
位置座標北緯35度01分57.1秒/東経135度42分58.7秒(世界測地系)
建立年1877年
建立者(宇多源氏二十一家)
寸 法高166×幅76×奥行30cm
碑 文
[西南]
宇多源氏始祖追遠之碑【題額】
今上御極大業鬱興百度具挙顧軫   宸慮于族法命史臣釐系譜修舊典明治九年丕令華族分」
類集合各奉其祖相匡正相保護以伝永世靡亡絶之患於是宇多源氏二十有一家合為一類制」
定規則越十年八月同社協議建碑于山城国葛野郡谷口村朱山始祖一條左大臣公之塋謹案」
公諱雅信
宇多天皇第九子一品敦實親王第一子妣藤原氏左大臣時平公之女也其嶽降延喜二十年譜」
缺月日公夙以皇孫累官貞元中任左大臣叙従一位正暦四年七月二十九日薨寿七十有四贈」
正一位世称一條左大臣公高邁勤恪諳練世故早朝晏退克理機務旁善和歌蹴鞠工音律以」
三朝台司位望隆重及薨朝野愛惜事具于家譜曁諸史公齢甫十七賜姓源朝臣実」
朱雀天皇承平六年十二月一日也而来孫子蕃庶由其所出称宇多源氏以別諸源云天保十三」
年当八百五十年祭期星霜遼遠亟経乱離祀典久不挙宗族在京者僅数家権建木標表之今也」
遭際昌代餘慶汪流奉戴   明詔同宗集結追遠帰厚鐫之貞石伝之不朽可謂盛事也哉乃掲大」
要以告後裔其二十一家姓名録在碑背銘曰
   天*之派   宇多之源   洋洋厥流   実顕実蕃   乱離紊綱   人紀喪部   同祖相忘」
   孰禦外侮
   皇有殷憂   誕修墜典   糸統分条   古道維闡
   曰咨華族
   皇室羽儀   除爾習染   永衛本支   大明宣昭   和気発越   翼翼一宗   二十有一」
   会盟肆筵   莫遠具通   克親克扶   克謀克軌   朱山之腰   豊碑森厳   奕奕祖光」
   闔族具瞻   各淑爾止   勿誤厥途   千秋万祀
   皇命弗渝
明治十年九月      正七位阪谷素撰文      従二位大原重徳題額      従四位黒田長知書」
[東北]
正三位   慈光寺有仲
正四位   大原   重實
正四位   五辻   安仲
従四位   綾小路有良
従四位   黒田   長知
従五位   京極   高厚
従五位   三宅   康保
従五位   京極   高富
従五位   京極   高典
従五位   森川   俊方
従五位   黒田   長徳
従五位   竹腰   正舊
従五位   庭田   重文
従五位   西五辻文仲
従五位   山崎   治敏
従五位   朽木   綱鑑
従五位   京極   高徳
従五位   亀井   茲明
            谷      益道
            毛利侃次郎
            建部   タ子
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調 査2013年1月13日
備 考


碑文中「*」字  


位置図
位置図

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