宇多源氏始祖追遠碑 碑文の大意
 今上天皇(明治天皇)即位後,もろもろの制度が整った。そのうえで華族のゆくすえを憂慮され,歴史学者に華族家系の調査を命じられた。明治9年,華族の家系を分類しそれぞれの部類内で共通の祖先を奉じ相互に扶助し,家系がとだえないように配慮せよと命じられた。源雅信末裔の宇多源氏に分類された21家は同族の規則を制定した。翌明治10年,宇多源氏に分類される家では,共同で山城国葛野郡谷口村の朱山にある始祖一条左大臣雅信公の墓所に碑を建てたのである。
 さて,始祖は名は雅信,宇多天皇の第九子一品敦実親王の第一子である。母は藤原左大臣時平公の娘。延喜20年(920)に生まれたが系譜には年月を記さない。天皇の孫であることから出世が早く,貞元年中(976〜977)には左大臣に任じられ従一位に叙せられた。正暦4年(993)7月29日に亡くなった。享年74。正一位を追贈された。世に一条左大臣とよぶ。
 雅信公は勤勉実直で世慣れたかたである。朝早く朝廷に出勤し遅くなって退出し,職務をきちんとはたした。そのいっぽうで和歌や蹴鞠がじょうずで,音楽にもたくみであった。このような能力をもって円融・花山・一条の三代の天皇に仕え,声望はならぶ者がなかった。なくなった時は世をあげて悲しみにくれた。公の履歴は家譜や歴史書にくわしい。公は17歳になると源姓をたまわった。朱雀天皇承平6年(936)12月1日のことである。それ以来子孫は多く,その由来にちなみ宇多源氏と称し,他の源氏と区別した。
 天保13年(1842)は雅信公850年忌だったが,そこに至る間,永い年月と争乱を経て子孫はちりじりとなり一族集まって祭典を挙行することはなかった。その年も京都在住の数家があつまり,かりに木の標識を建てただけにとどまった。いまありがたい明治の世に遭遇し,今上陛下のありがたい思し召しもあり,同族がここに集まり始祖を厚く追懐することができたので,石碑を建てて永遠に残すことにした。なんとすばらしいことではないか。そこでこの碑文で概略を示し子孫に告げるものである。二十一家の姓名は碑の裏面に録した。
  【以下銘略】