法眼宅間勝賀終焉地

UK100

たくましょうがづかのひ
石碑(0028046)石碑周辺(0028047)

 絵仏師宅間勝賀(生没年未詳)は宅間派の祖為遠の子。嘉応元(1169)年頃より承元3(1209)年頃まで神護寺・東寺の仏像制作等に携わった。栂尾高山寺の明恵上人(1173〜1232)を信仰していたといわれ,上人が擁護していた春日・住吉社の神相を筆写したところ,神罰があたり,帰途落馬してこの地で没したという。この碑は勝賀の墓と伝える高さ87cmの無縫塔(宅間塚)の横に建てられ,勝賀の終焉地を示したものである。

所在地右京区鳴滝宅間町(周山街道三宝寺橋南詰)
位置座標北緯35度01分56.2秒/東経135度42分11.0秒(世界測地系)
建立年延宝7年
建立者三宅高信
寸 法高94×幅46×奥行21cm
碑 文
[南]
宅間澄賀曽為絵所歴法橋叙法眼故世称宅間法眼常信慕明恵上
人而来往栂尾于時春日住吉二神屡降臨親聴明恵之法要然明恵
之外無見尊容者宅間請上人曰願写尊形以為衆生修結縁上人曰
凡眼直拝神容則恐殞命宅間曰雖死不敢悔矣神亦憐其志暫示現
宅間不堪歓喜則敬而拝写之今栂尾二神之尊像是也宅間之志願
已遂矣喜帰京師於茲誤堕馬而斃矣嗚呼痛哉夫神之霊験挙而不
論之宅間雖末芸者其有志家業也深哉誠殺身以成仁之一端乎時
人憐之建石碑於茲地矣其後年久遠陵谷変遷建碑既絶人亦無知
其蹟者当今歎名蹟蕪没再建一箇片石聊記其大概云爾
延宝七己未年七月三日               画工三宅陽心高信建
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調 査2009年2月10日
備 考碑文は風化して読みがたい部分が多いので『京都名家墳墓録』に収めるものに拠った/『改訂史籍集覧』雑および『古事類苑』文学部に収める碑文には「宅間澄賀」を「宅間勝賀」と記すが原碑は不分明/また末行「七月三日」を「十月三日」(類苑)「九月日」(集覧)とする

位置図
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