小野寺十内妻丹女墓

SI071

おのでらじゅうないつまたんじょのはか
石碑(0029500)石碑周辺(0029501)

 赤穂浪士のひとり小野寺十内(1643〜1703)の妻丹(?〜1703)は,夫の切腹後,西方寺(現京都市左京区)に夫の墓を建て,ひそかに江戸泉岳寺から夫の首を掘り起こし西方寺に葬った。そのあと食を断ち自死したと伝える。丹の墓は本圀寺塔頭了覚院に建てられたが,了覚院が廃寺になったあとも墓所だけが現存している。なお了覚院が廃寺になるとき,富岡鉄斎が墓を引き取ろうとして果たさず,瑞光院(現山科区)に招魂碑を妻春子の名で建立した。  以上の経緯は田中緑紅『忠臣蔵名所』(1958年京を語る会刊)に依拠する。なお丹は寛政2(1790)年刊『近世畸人伝』にも大きくとりあげられ,貞女の範と賞揚されている。碑文に「烈女」と記す由縁である。

所在地下京区岩上通五条上る東側
位置座標北緯34度59分51.1秒/東経135度45分05.3秒(世界測地系)
建立年1934年
建立者京都史蹟会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑 文
[西]
赤穂
   小野寺十内妻烈婦丹女之墓
義士
[北]
京都史蹟会
[南]
昭和九年九月十八日
調 査2014年11月2日
備 考碑の立っている岩上通から東へ狭い路地が通じその奥に墓所がある

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