桜田儀兵衛氏碑

SI004

さくらだぎへいしのひ
石碑(0007643)石碑周辺(0007646)

 桜田儀兵衛(1832〜93)は紀伊郡柳原町の名望家。私財を投じて貧民救済を行い,明治19(1886)年に流行したコレラの防疫活動にも尽力した。同22年,柳原町町長に選出された。この石標と石碑は,その業績を顕彰するものである。

所在地下京区下之町(柳原銀行記念資料館前)
位置座標北緯34度59分10.6秒/東経135度45分52.1秒(世界測地系)
建立年1895年
建立者
寸 法(石標)高379×幅61×奥行60cm/(顕彰碑)高233×幅163×奥行25cm
碑 文
[石標南西]
桜田儀兵衛氏之碑
[石標南東]
従三位公爵近衛篤麻呂書
[石標北西]
明治二十八年三月
 
[顕彰碑南]
桜田翁山城国紀伊郡柳原町人也資性篤実襲業以来拮据勉励
家道大興明治維新百度茲革翁涕泣告衆曰天恩広大我輩生遭
聖世豈安于陋習而可乎宜先矯正風俗啓発蒙昧以答聖明之恩
無幾挙為里正本町民戸千有餘而貧者居半加以習俗鄙陋統治
不易翁百方規画首設学校使誘掖就学無資者給衣服器具又訓
戒父兄使講世道之要如此者数年民俗大改翁又憂本町公費之
不常償別設補給之法而不課于衆或開修道路溝渠除閭巷湿隘
之患或有天災疫癘輙救恤之凡百公事皆率先捐資而自奉倹素
終身不纒絹帛居職二十餘年終始如一日治績可見矣官数賜銀
盃及木杯賞之今茲春以病罷職無幾歿翁通称儀兵衛有一男三
女男繁松嗣亦能継父志女皆適他翁之死也郷人哀惜如喪父母
敬慕之餘将建石伝功于不朽余以与翁交久也請銘因叙事実梗
概且銘之曰
      普天率土   誰非王臣   時遭聖世   百度茲新
      翁兮感泣   首期報效   除陋啓蒙   専重明教
      薄己恤人   郷党懐徳   歴歴其績   廿載之職
      鳧水清K   永存豊碑
   明治二十八年三月      京都府紀伊郡長正七位荒井公木撰并書
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調 査2002年2月18日
備 考

位置図
位置図

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