桜田儀兵衛氏碑 碑文の大意(顕彰碑) |
桜田翁は山城国紀伊郡柳原町の人である。性格は実直であり,家業をついで,非常に努力し,家の名をあげた。明治維新に際し,古い制度がまったく改革された。そこで,翁が涙を流して皆にいうことには「天皇の恵みは広大なもので,わたしは生きている内にこのめでたい世にあうことができた。どうして古い悪習に安住できようか。ぜひ風俗を改め,無知な人を啓発し,この恵みに報いたいものだ」と。 やがて村長に就任した。柳原町は,戸数千戸以上であるが,貧困な人が半数以上を占め,これに加えて悪習に染まり,治めるのが困難な地域であった。翁はいろいろ考え,学校を設け,入学を勧誘することを始めた。学資の出せないものには衣服や道具を給付し,そのかたわら,父兄に地道な生活の必要を教えた。数年間,こういう努力をしたところ,風俗がおおいに良くなった。 翁はまた柳原町の予算がいつも不足することを心配し,別に歳入を見つけて町民の負担にならないようにした。あるいは道路や溝を修理・新設し町内の水はけを改良した。また,天災や伝染病の害があれば,すぐに被害を受けた人を救っていた。およそ,柳原町に関係したことであれば,財産をなげうってでも率先して実行したが,自分は常に倹約を旨とし,一生絹物を着ることがなかった。村長に在職すること二十年,常に変わらず精勤し,その功績はいちじるしいものがある。国や市からはしばしば銀盃と木盃をたまわり表彰された。 ことしの春,病気のため辞職し,ほどなく没した。翁は通称儀兵衛,子供一男三女があり,長男繁松が家を継ぎ,父の志を継承した。娘は皆結婚している。翁の死後,町民の嘆きは父母を失ったようなものがあり,敬慕のあまり,石碑を建てて功績を後世に伝えようとしている。そこで,翁と交友が深かったので,わたし(筆者紀伊郡長荒木公木)に碑文を書くことを依頼された。そこで事実の概略を記すものである。 |