蓼倉川水路開鑿碑

SA257

たでくらがわすいろかいさくのひ
石碑(0029516)石碑周辺(0029517)

 蓼倉川は旧愛宕郡下鴨村字蓼倉に農業用水を供給する用水路で,高野川から取水した。この碑は明治12年に下鴨村が築造した経緯を記す。蓼倉川は周辺の都市化でその流路がわからなくなっていたが,住民の尽力で判明した。この経緯は京都新聞2014年10月22日付朝刊に,流路略図とともに掲載されている。

所在地左京区下鴨宮崎町(下鴨小学校内)
位置座標北緯35度02分12.5秒/東経135度46分05.8秒(世界測地系)
建立年1893年
建立者下鴨村農会
寸 法高約170×幅90×奥20cm
碑 文
[北]
水路開鑿碑【篆額】
蓼倉郷在于愛宕郡下鴨村東部其田十有八町餘歩土地高燥
缺灌漑之便故養田之水與修学院田中松崎三村偕較其収獲
之穀数而分引高埜川之水以養秧田自昔然矣而蓼倉郷水路
在最下方経松崎村而流来是以七八月之間天少旱忽失灌漑
之便旱魃為虐田面亀裂青苗萎凋村民憂歎立視其枯死而已
於茲浅井平左衛門小松弥左衛門村上定祥宮崎又右衛門宮
崎弥兵衛小松久左衛門西野顕繁松永平兵衛等相謀新開水
路引修学院村音羽瀑布之下流以便此郷之灌漑将救其枯渇
矣明治十二年五月就其村民反覆論辨得其和調遂請官准而
起工閲一年竣功嗚呼諸氏労其身焦其思遂使無旱魃之患其
功可不称哉因立石勒其事以貽後代欲使村民益勉于耕稼也
                     撰文者林正躬      下田伊明篆額并書
[南]
明治廿六年四月十五日下鴨村農会建之
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調 査2014年11月13日
備 考関係史料に「蓼倉郷新井路開設日記」(京都市歴史資料館蔵「古舘三徳氏旧蔵文書」)がある/小松明「明治十二年の『水路開鑿碑』から想いを馳せる」(『賀茂文化』5号,2008年)によれば,この碑は「東の塚(寄合塚,呼寄塚)と呼ばれていた古墳の横(現在の京都市バス高木町バス停付近)」に建てられ,昭和5年に下鴨尋常小学校(現視力障害福祉センター)に移され,昭和12年に同校移転にともない現在地へ再移設された/同書によれば碑文撰者林正躬は京都府立中学の国語漢学教員

位置図
位置図

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