蓼倉川水路開鑿碑 碑文の大意
 蓼倉郷は愛宕郡下鴨村の東部に位置し,約18町歩の田があったが,土地が高く灌漑が不便だった。そこで農業用水は修学院・田中・松ヶ崎の三か村とともに,昔から高野川の水を引き,村別の収穫高に応じて分配していた。しかし蓼倉郷の水路はいちばん下流にあり,松ヶ崎村を経て流れてきた。このため七八月の間,少しの日照りにも水が少なくなり,田はひび割れ稲はしおれたのである。村人は日照りの被害を見るに忍びなかった。
 そこで浅井平左衛門・小松弥左衛門・村上定祥・宮崎又右衛門・宮崎弥兵衛・小松久左衛門・西野顕繁・松永平兵衛らは,修学院村音羽の滝の下流から水路を開き,蓼倉郷の灌漑用水とし,日照りの被害を救おうと相談した。村民をくりかえし説得し賛同を得た。さらに官庁の許可を得て明治12年5月に起工,一年を経て竣工した。
 発起人諸氏は心身ともに苦労し旱魃の被害を防いだ。その功績は讃えられるべきものである。そこで石碑を作り事の次第を記し後世に残すことにした。村民がますます農業に励むことを期待する次第である。