京都博覧会碑

SA219

きょうとはくらんかいのひ
石碑(0027726)石碑周辺(0027727)

 京都では明治4(1871)年から毎年博覧会が開かれた。いまの言葉でいえば見本市のようなものである。最初は大寺院や京都御所・仙洞御所などを借りて会場にしていたが、常設の博覧会場が明治13(1880)年に京都御苑東南隅に建設された。この碑は常設博覧会場が完成したのを記念して,京都における博覧会の創始を記したものである。最初は常設博覧会場内に建てられたが明治末には博覧会などの大きな催しは岡崎で行われるようになり,碑も昭和12(1937)年に現在地に移設された。碑の裏面には博覧会の関係者が名前をつらねている。いずれも明治初めの京都経済の推進者ばかりで,京都の経済界がこの博覧会に大きな期待を寄せていたことを示している。

所在地左京区岡崎成勝寺町(みやこメッセ内)
位置座標北緯35度00分46.7秒/東経135度46分53.8秒(世界測地系)
建立年1880年
建立者(京都博覧協会カ)
寸 法高約360×幅115×奥行17cm
碑 文
[西]
京都博覧会碑【篆額】
一場内陳列宇内之奇品蒐集古今之珍異以開人智而興物産進工芸而恢弘貿易資益之道者唯博覧■【会】」
為然会之為用其不亦大乎明治四年本府糾合府下有志者剏設此会於本願寺実為本邦博覧会■■■ 【嚆矢矣】」
其明年又開場於知恩建仁本願之三刹五月   天皇幸焉親賜   御覧自是毎歳開設或於   皇■■■■【宮内或於】」
仙洞旧院内其十年四月   皇太后宮與   皇后宮同臨焉六月   天皇又幸焉此会之栄為極大也■■■【今茲十】」
三年卜地於御苑内新築屋宇修庭園以為永久不易之場矣蓋京都為地也千有餘年之帝都而百工■■【万商】」
紛然雑店加以山水境勝四方之士来遊者亦多然   鳳駕東遷後一朝呈衰色将有古都之歎是以府■■【官百】」
方救護幸得致今日繁盛不失帝都之旧相者此会亦為與有功焉乃今築其場於御苑内良有以也頃工■【事】」
告竣因記其由以告後人云   明治十三年歳在庚辰冬十月   京都府知事従五位槙村正直撰」
      内務卿正四位勲二等松方正義篆額                              巻菱潭書」
[東]
発起人
   熊谷久右衛門
   三井八郎右衛門
   小野善助
   市田理八
   三井元之助
前頭取
   杉浦三郎兵衛
   三井源右衛門
前幹事
   藤林源助
   大江長右衛門
   遠藤弥三郎
   竹原弥兵衛
   細辻伊兵衛
   岩佐孫兵衛
   柏原孫左衛門
   美濃部忠兵衛
頭取
   下村正太郎
権頭取
   三井宸之助
副幹事
   池田八郎兵衛
博覧会掛
   京都府前典事木村正幹
   同前九等出仕横井忠直
   同前四等属   竹中兼和
   京都府一等属明石博高
   同      五等属片山正中
   同      七等属中山精一
   上京区長      杉浦利貞
   下京区長      竹村藤兵衛
建築掛
   京都府六等属長谷川吉昌
   同      九等属本部有数
         岡野伝三郎刻
【後刻】
昭和十二年十月京都博覧協会解散
ニ際シ旧地ニ建設シタリシ本協会
記念碑ハ之レヲ本市勧業館庭園ニ
移スコトトシ永久保存ノ允許ヲ得
タリ茲ニ昭和十二年十二月移築ヲ
完了ス
碑文の大意ここをクリック
調 査2008年1月10日
備 考碑文には各行末に剥落箇所があるので京都博覧協会編刊『京都博覧会沿革誌』(1903)等に拠り【 】内に補う/昭和12年に京都御苑内から現在地に移設された/西面には五段にわたり関係者名を記すがここでは整理して記した/京都御苑内博覧会場図に描かれたこの碑(「京都博覧会場図」部分)はここ

位置図
位置図

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