照高院宮址

SA044

しょうこういんみやあと
石碑(0007155)石碑周辺(0007159)

 照高院は,豊臣秀吉(1536〜98)の信任厚い天台僧道澄が開基した寺で,もと東山妙法院にあったが,方広寺鐘銘事件(1614)に関連して廃された。元和5(1619)年後陽成天皇の弟興意法親王(1576〜1620)が,伏見城の建物を譲り受け,現北白川外山町付近に再建した。その後,聖護院門主の退隠所となる。明治に入り門主智成法親王(1856〜72)は還俗して北白川宮と称し,宮家の東京移転に伴い堂舎は取り壊された。この石標は照高院宮を記念するものである。

所在地左京区北白川山ノ元町
位置座標北緯35度02分22.2秒/東経135度47分44.3秒(世界測地系)
建立年(甲碑)1909年(乙碑)1902年
建立者近藤親正
寸 法(甲碑)高135×幅90×奥行43cm/(乙碑)高159×幅81×奥行44cm
碑 文
[甲碑西]
三品智成親王書
   事君不忠非孝也
[甲碑東]
明治四十二年五月建之
      旧臣近藤親正建之
[乙碑西]
照高院宮址
[乙碑東]
照高院宮者本居御門跡之一文禄之初豊太閤秀吉創建堂宇
于洛東大仏乃迎准三宮聖護院道澄大僧正為法主焉寺領一
万石此為照高院起源慶長三年法主嘆恐三井寺将垂断滅頒
附領地四千三百二十七石餘以再興之及元和元年適有大仏
梵鐘之変事連照高院因被褫寺領壊堂宇後五年当法主興意
法親王時更請幕府卜寺域于洛東白川邨幕府聴附寺領一千
石堂宇諸殿復新建設属天台宗用菊章雪輪焉爾来経道周道
晃道尊忠誉四法主法親王至明和七年為聖護院御門跡兼帯
寺於是寺領其他一切為聖門所支配従此殆一百年間不復置
法主明治元年以聖護院宮御法弟智成親王為照高院主同時
復飾三年改称北白川宮五年親王薨御実兄能久親王為嗣尋
移于東京而堂宇諸殿為撤壊実係八年乙亥夏事云
明治三十五年六月      正八位巌本範治撰   合川澄水書
[乙碑南]
距此東南本村字宮山字丸山間凡若干坪是為旧宮地域其外
郭石垣及古池今尚存焉
      元照高院宮坊官北白川宮旧臣士族近藤親正謹建之
                                    彫工   吉村市郎兵衛
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調 査2002年2月20日
備 考甲乙の二碑あり/北白川石工共和組紀念碑(SA234)と並び立つ

位置図
位置図

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