照高院宮址 碑文の大意(乙碑)
 照高院宮はもとは御門跡の一家であった。文禄年間(1592〜96)の初め,豊臣秀吉によって洛東に創建され,聖護院道澄大僧正を迎えて門跡住職とした。寺の所領は一万石。これが照高院の起源である。
 慶長3(1598)年,法主は三井寺がまさに断絶しようとしたのを心配し,領地4,327石餘を分け与え再興させた。元和元(1615)年,照高院宮は方広寺鐘銘事件に連座し,寺領を取り上げられ堂舎は破壊された。5年後,法主興意法親王の時に幕府に再興を陳情し許され,洛東白川村に再興し所領1,000石が付与された。
 再興以来,道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て,明和7(1770)年には聖護院御門跡兼帯寺となった。これより寺領その他一切は聖護院門跡の支配にゆだねられた。これから百年の間は法主が置かれなかった。明治元(1868)年,聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させた。明治3年に北白川宮と改称した。5年に親王は薨去。御実兄能久親王があとを嗣いだ。その後東京へ移られ,照高院の堂宇は撤去された。明治8年夏のことである。
 この碑の場所から東南へ,白川村字宮山と字丸山間の土地が照高院の旧地である。外まわりの石垣と古池は今なお残っている。