山名氏清碑KA160 |
やまなうじきよのひ |
山名氏清(1344〜91)は南北朝時代の守護大名。北朝方に属し,一時は一族が日本六十六か国のうち十一か国を領し「六分一殿」とよばれるほど権勢をほこった。将軍足利義満は山名氏の強権勢を削減しようと挑発したため,氏清は南朝に降伏を申し入れ,明徳2年(1391)12月(グレゴリオ暦では1392年)に挙兵し,京都を攻めたが敗北し氏清は戦死した(明徳の乱)。義満は氏清の勇猛を惜しみ,首を三方に載せ配下の武将に拝礼させたという。 義満は明徳の乱の戦没者を弔うため,応永8(1401)年に北野東向観音寺の南に巨大な北野経王堂(願成寺)を建立し万部経を読誦が行われた。義満は経王堂の艮(東北)の隅に氏清の首を葬ったという。経王堂は慶長10(1605)年に修理を加えられたが,その後あまりの巨大さに維持ができなくなり,寛文10(1670)年に解体され部材は大報恩寺本堂修理の用材にあてられた。経王堂の跡には小堂が建てられ,江戸時代の地誌にはこの小堂が北野経王堂とよばれている。本碑は寛文解体後に氏清の墓域が失われるのを恐れて,小堂のかたわらに建立されたものであろう。『京都坊目誌』によれば明治3年に廃寺になり,その時本碑は現在地である大報恩寺境内に移されたという。 |
所在地 | 上京区五辻通六軒町西入北側(大報恩寺内) |
位置座標 | 北緯35度01分53.3秒/東経135度44分22.8秒(世界測地系) |
建立年 | 延宝5年 |
建立者 | 山名和高 |
寸 法 | 高91×幅28×奥行28cm |
碑 文 | |
[東] | |
山名陸奥大守氏清之碑 | |
[南] | |
北野経王堂者 鹿苑院殿為山名陸奥大守氏清所経営也 | |
氏清山名伊豆守時氏四男也其為人也膂力過人勇猛絶倫 | |
此時山名一族領十一箇国世謂之山名六分一殿也 | |
南帝賜錦御旗於氏清明徳二年氏清進■営於内野奮撃而 | |
戦死年四十八法号古鑑衡公号宗鑑寺殿 将軍家使諸将 | |
拝氏清之首且頓写八軸妙典転読万部法華経爾来毎歳例 | |
[西] | |
為定式伝道経王堂之艮礎者葬氏清之封塋也山名親族家 | |
僕過此堂則鞠躬■之然慶長中再興之日移経王堂於今地 | |
故塋域失所且又頃年堂宇朽壊旧跡■遺嗚呼痛哉予不得 | |
已而立小碑以伝于永世不特欲顕揚先徳且傷霊魄不獲其 | |
安也我党其思之 | |
延宝五丁巳歳仲秋日 山名和高誌之 | |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2012年6月28日 |
備 考 | 上記碑文は『京都名家墳墓録』所収のものを原碑と対校しその誤字脱字を訂したが,なお■であらわす損壊による不可読文字が残った/碑文の撰者兼建碑者の山名和高は但馬国村岡藩主山名矩豊のこと/経王堂については『国宝建造物大報恩寺本堂修理工事報告書』(1954年京都府教育庁文化財保護課刊)の解説に拠った。 |