山名氏清碑 碑文の大意
 北野経王堂というお寺は鹿苑院殿(足利義満)が山名陸奥守氏清のために創建したものである。氏清は山名伊豆守時氏の四男で,その人がらは人一倍力が強く,勇敢さは他に例を見ない。氏清の時に一族は日本六十六か国のうち十一か国を領し,氏清は「山名の六分一殿」と呼ばれた。
 南朝の後亀山天皇は氏清に錦の御旗を与え,氏清は明徳2年に京都へ進撃し,内野で激戦となり戦死した。享年四十八。没後は法号を古鑑衡公といい宗鑑寺殿と称された。将軍義満は(その勇猛さに感じ)氏清の首を配下の武将に拝礼させ,また供養のため法華経八巻の写経や転読を行わせ,これは以後恒例となった。経王堂の艮の隅は清氏を葬った墓所であった。山名の親族や家僕は経王堂に来るたびにかしこんで拝礼したものである。
 慶長年中に経王堂が現在地に再興されたとき,氏清のもとの墓所は所在がわからなくなり,また近年堂舎が朽ち果ててきた。なんとも嘆かわしいことである。わたし(碑文の筆者山名和高)は見過ごしにできず,小さな碑を立て将来に残すことにした。先祖のおかげを感謝するだけでなく,霊魂が墓所を失いさまよっていることを悲しむためでもある。わが一族の者よこの趣旨を肝に銘ぜよ。