伏見口の戦い激戦地跡

HU156

ふしみくちのたたかいげきせんちあと
石碑(0028175)石碑周辺(0028176)

(解説は本碑の南に隣接する副碑碑文にゆずる)

所在地伏見区南浜町(京橋北詰東側)
位置座標北緯34度55分48.7秒/東経135度45分31.9秒(世界測地系)
建立年2009年
建立者伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会
寸 法高110×幅18×奥行18cm
碑   文
[西]
伏見口の戦い激戦地跡
[北]
平成二十一年十二月建之
   伏見観光協会
   (社)伏見納税協会青年部会
[副碑西]
                  伏見口の戦い激戦地跡
   江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石」
船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよび舟運で賑わった伏見港の中心が」
この京橋付近です。角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ば」
れるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の」
宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を」
連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、」
馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の」
宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人」
や荷物で賑わっていました。橋の南詰には三十石船のように運上金によって」
幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、」
人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
   幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩」
の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂を宿陣とし」
て戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら」
淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けまし」
た。
                                                        伏見観光協会
                                                        (社)伏見納税協会   青年部会
                                                        平成21年12月   建立
調 査2010年1月6日
備 考副碑碑文本文は横書き・総ふりかな/ふりかなで注意を要するものはこのリスト


位置図
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