所在地 | 伏見区三栖半町(伏見みなと公園内) |
位置座標 | 北緯34度55分48.1秒/東経135度45分20.3秒(世界測地系) |
建立年 | 1899年 |
建立者 | (有志) |
寸 法 | (主碑)高約320×幅184×奥行35cm(副碑)高129×幅120×奥行24 |
碑 文 | |
| [主碑東] |
| 角倉了以翁水利紀功碑 |
| 京都府知事従三位勲三等内海忠勝書(印二顆)【「内海忠勝」「号天湖」】 |
| [主碑西] |
| 角倉了以翁水利紀功碑 |
| 伝曰太上立徳其次立功立徳最難立功不易況偉績著当時利沢施後昆者乎如」 |
| 角倉了以翁其克立功者耶翁以名門支族洛西富豪長於経済尤明水理相地勢」 |
| 測高低鑿険夸阻激者漫之浅者深之舟揖可遣漕路開通近時官追賞其功賜以」 |
| 金円曰疏鑿諸川投資財督工事開水陸運輸之便以興国家之鴻益其功績明著」 |
| 矣如吾京都高瀬川是其一也初豊臣氏之再建大仏也艱運搬翁建議頼水力以」 |
| 曵巨材観者偉之慶長十六年更請徳川幕府開長渠於鴨川北起二条南達伏水」 |
| 長約弐千七百五拾四丈広約弐拾壱尺設閘量水以制流勢定綱規置吏徒以管」 |
| 事務凡運於京都者關東由逢坂關西由此渠逢坂道路険悪牛斃車敗運輸甚苦」 |
| 此渠則平川溶溶深浅有常*船百艘舳艫相銜耶許之声数里不絶出入貨物山」 |
| 積阜堆若一日不通則京都物価為之騰貴幕府喜其功特召延見専管其事者殆」 |
| 三百年高瀬之利被於京洛而角倉氏益栄居然素封誠可謂盛矣維新之初旧物」 |
| 悉革而角倉氏之業亦罷加之鉄軌交通運搬益開而此渠則依然不廃伏見*主」 |
| 等相共継其業仍為京都漕運之咽喉為之衣食者亦不下数百人豈非偉績著当」 |
| 時利沢施後昆者耶於是*主等胥謀欲建石於其会所之旧址以永紀其事来謁」 |
| 題及文於予按了以当干戈未#海内凋弊之秋深用心於経世公益以開通水利」 |
| 克建此業而利吾京都者最多矣其功豈可没乎哉*主等不以時勢変換而忘其」 |
| 旧恩能成此挙是亦可嘉矣故予不敢辞為題其碑且作之文至其世系及他事業」 |
| 則道春先生所撰碑文既備此不復贅鳴呼世之観此碑者其可以感興矣 |
| 明治三十二年十二月 京都府知事従三位勲三等内海忠勝% |
| 京都府属山田得多書
|
| [副碑東] |
| 角倉了以翁水利紀功碑建設発起人 |
| 伏見 |
| 江崎権兵衛 柴田弥兵衛 武藤太兵衛 杉山半二郎 |
| 千歳一兵衛 小田佐兵衛 岩田喜八 和田千二郎 |
| 岡田長兵衛 木村伊兵衛 島 卯之助 高瀬船方 |
| 竹谷大二郎 大畑弥兵衛 川合小兵衛 小林甚吉 |
| 雑喉嘉右衛門 松村喜兵衛 小林嘉助 井上九平 |
| 松井重助 常本安兵衛 伏見 和田八十平 |
| 橋本茂兵衛 祖父與兵衛 和田太兵衛 小森伝十郎 |
| 北村藤助 中島六兵衛 杉山三右衛門 三木伊右衛門 |
| 荒川治郎兵衛 沢田久兵衛 小山藤兵衛 |
| 西京 千葉安二郎 杉村太右衛門 |
| 清水吉右衛門 名和小三郎 高島源助 |
| [副碑西] |
| 金五円以上寄附者 |
| 西京 |
| 合資会社鼎商会 谷口清三郎 木村新兵衛 南部新右衛門」 |
| 井上文兵衛 宮本楢吉 伊藤長右衛門 北口房次郎 |
| 毛利信助 木村庄三郎 樋口栄吉 木村支店 |
| 森脇商会 清水太郎兵衛 松本重三郎 長柄治源助 |
| 赤松吉兵衛 松井藤三郎 国島藤七 安井源四郎 |
| 松本菊之助 岡田金七 小西治郎吉 長柄清兵衛 |
| 海蓮会社 岸 留吉 山崎又右衛門 今堀藤五郎 |
| 高畑勘右衛門 山本住造 出口永三郎 辻 音吉 |
| 井上彦造 山田源次郎 佐々木久太郎 菱田庄次郎 |
| 出石泰三郎 初田岩次郎 曽束恒太郎 海野清太郎 |
| 岩田吉之助 柴田喜兵衛 細矢新三郎 山出喜助 |
| 中川嘉兵衛 平松九兵衛 岩村清兵衛 和田銕之助 |
| 岩根清次郎 京都電燈会社 千歳伊右衛門 安井嘉助 |
| 梶原治助 京都石炭問屋中 河村仁兵衛 嵯峨角倉組 |
| 北岡嘉助 京都炭薪三郷中 絹谷藤兵衛 嵯峨村中 |
| 植村儀右衛門 伏見 秋岡淑三郎 竹田村中 |
| 伏見薪炭共進組中 津岡弁次郎 山口佐十郎 |
| 川本平四郎 福井伊右衛門 高橋熊治郎 |
| 今堀喜右衛門 |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2008年3月9日 |
備 考 | 現在地近くの民家敷地内にあったことが1975年8月13日付京都新聞夕刊に見える |