角倉了以水利紀功碑 碑文の大意
 伝(春秋左氏伝襄公二十四年)に「聖人は徳を立て後世に残し、その次の賢人は功を立て後世に残す(これが不朽というものだ)」という。徳を立てることはもっともむずかしいことで、功を立てることも容易ではない。まして同時代の人からは偉業をたたえられ、しかも後世の人には恩恵を与えるような事業はまさに不朽の功績というべきであろう。角倉了以氏はその功績をなしとげた人である。
 角倉了以氏は名門の流れに生れ、洛西の富豪である。経済(社会事業のこと)に明るく,最も河川土地の測量開発に長じていた。水流を切り開き、激流をおだやかにし、深い川を浅くし、水路を開き船が通行できるようにした。
 近年政府から「私費を投じ多くの川の船運を開いたことは国家に功績ある事業である」として角倉家を表彰した。高瀬川開鑿もその偉大な功績の一つである。
 豊臣氏が方広寺大仏殿を再建するとき,資材の運送に困った。了以氏は鴨川に船を通し巨大な材木を運ぶことを提案して実現した。この運送を一見した人はみな偉業だと感じた。  さらに慶長16年徳川幕府の認可を受け,鴨川に水路を開いた。北は二条から南は伏見に至る,長さ2754丈、幅21尺の水路を開いた。この水路には水門を設け水量を調節し、規則を定め担当者を置き管理した。(これが高瀬川である)
 京都に物資を運ぶには,東からは逢坂山を経て,西からはこの川(高瀬川)を利用した。逢坂山経由はけわしい山道で牛や車は苦しめられた。この川は平坦な水路で,水量も調節でき容易に運漕することができた。高瀬舟は川にひしめき,船頭の音頭は数里にわたり聞くことができるほどだった。京都に運び込まれる物資はばくだいなもので,もし一日この川を舟が通れなくなったら京都の物価は高騰するほどであった。
 江戸幕府はその功績により,将軍謁見の特典を与え,角倉家に高瀬川の管理を委託し,これが三百年続いたのである。京都は高瀬川のもたらす利益を享受し,同家はますます栄え大名にも匹敵するほどであった。
 明治維新の変革で角倉家は職を免じられ,また鉄道の開通でいよいよ物資輸送は便利になった。しかし依然として高瀬川は廃止されることはなかった。その業は京都の河川輸送の中心であり,これに頼り生活する者は数百人を下らない。まさに「同時代の人からは偉業をたたえられ、しかも後世の人には恩恵を与えるような事業」にほかならない。
 そこで高瀬川運漕業者らは記念の碑を会所の跡に建てようと計画し,碑文をわたし(筆者京都府知事内海忠勝)に依頼した。思うに了以はまだ戦乱の餘波がおさまらず,世間が疲弊している時に,将来を見越して公益のために水路を開いた。京都は了以翁の餘沢をこうむるところが大きい。また高瀬船業者も時勢が変わってもよく了以の恩を忘れず,このたび碑を建てるに至ったのはめでたいことである。この故にあえて碑文を作るものである。
 角倉家のルーツや代々のこと,あるいは高瀬川以外の事業については(嵐山大悲閣にある)林道春先生の碑文があるから触れない。この碑を見る人は以上のようなことに思いを馳せてほしい。