明智薮HU008 |
あけちやぶ |
天正10(1582)年6月本能寺の変後,明智光秀(1528〜82)は山崎合戦で豊臣秀吉(1536〜98)軍に敗れ,近臣十数名と共に暗夜に乗じて居城近江坂本を目指したが,大亀谷から小栗栖の竹薮道に至った所で,小栗栖の飯田一党の襲撃を受け最期を遂げた。この石標は明智光秀終焉の地明智藪を示すものである。 |
所在地 | 伏見区小栗栖小阪町 |
位置座標 | 北緯34度56分49.8秒/東経135度48分07.9秒(世界測地系) |
建立年 | 1975年 |
建立者 | 京都洛東ライオンズクラブ |
寸 法 | 高103×幅18×奥行18cm |
碑 文 | |
[東] | |
明智薮 | |
[西] | |
昭和五十年一月建之京都洛東ライオンズクラブ | |
[北] | |
天正十年六月十三日光秀横死 | |
調 査 | 2002年2月13日 |
備 考 | 関連して明智光秀首塚碑(HI036),明智光秀胴塚(YA063)がある |
位置図 | |