所在地 | 東山区清閑寺霊山町(京都霊山護国神社内) |
位置座標 | 北緯34度59分59.3秒/東経135度47分00.7秒(世界測地系) |
建立年 | 1879年(カ) |
建立者 | 岩倉具視(カ) |
寸 法 | 高189×幅91×奥行37cm |
碑 文 | |
| [西] |
| 従五位玉松真弘碑【篆額】 |
| 従五位玉松君碑銘 一等編修官従五位川田剛製文 |
| 従五位玉松君既卒之六年右大臣岩倉公為建碑京東霊山修史館五等掌記樹下茂国来伝公」 |
| 旨於一等編脩官川田剛属以銘詞且曰公之於君契分投合膠漆不啻毎談往事言必及君追惜」 |
| 歎美以至垂泣夫公中興元勲地居宰輔天下才俊趨候門下者何限而独眷眷於君如此豈無所」 |
| 自而然乎謹按其状君諱眞弘通称操従四位下侍従山本公弘之第二子也少入醍醐寺為僧号」 |
| 猶海任大僧都法印欲釐革僧律為儕輩所憎乃蓄髪称山本毅軒尋改氏曰玉松君雖韜跡江湖」 |
| 慷慨憂国深歎 王室式微東西奔馳陰図恢復嘗游和泉寓願泉寺屡説尊王大義勧寺僧還俗」 |
| 諷示其意不応去隠於近江阪本與茂国等交当是時覇府失政海内繹騒公為俗吏所忌屏居北」 |
| 山岩倉邨密招四方雋傑茂国等薦公以君可大用公乃一見奇之引為腹心慶応丁卯」 |
| 天子親政下 密旨於薩長諸藩廃摂関門流置三職諸大処分公使君参謀議既而 車駕東幸」 |
| 六師征討制誥文移紛擾如織君援筆草案莫不立辨人服其敏警明治元年任内国事務権判事」 |
| 管皇学所明年正月十九日 特旨班堂上叙従五位下又明年為侍読賜世禄二百五十餘石尋」 |
| 辞官闍曙ワ年二月養姪子真幸為嗣是月十五日卒距其生文化七年三月十七日得年六十有」 |
| 三葬於清浄蓮華院君性寡欲布衣蔬食室無妻妾夙講仏乗博渉国書及漢籍旁通天文算数而」 |
| 志在済世不屑著書售名以故平生作文亦不留其稿特受知於公公嘗語人曰博識多才狷介自」 |
| 守如吾真弘者世未見其比而君亦曰鞠躬尽瘁嘗聞其語今見其人岩倉公是也嗚呼二人同心」 |
| 其利断金在尋常交友且然況身参 廟謨言聴計従則功用之大可知焉剛備員史館闡幽発潜」 |
| 職分所存故不辞不文敢執筆為之銘銘曰
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| 仏乎非仏 儒乎非儒 挙値知己 謀参密枢 巧発奇中 術士為徒」 |
| 功成身退 天道同符 偉矣若人 今世所無 鐫銘貞泯 永伝令誉」 |
| 右大臣従一位勲一等岩倉具視題額 太政官大書記官従五位巌谷修書 |
碑文の大意 | ここをクリック |
調 査 | 2014年9月18日 |
備 考 | 建立年は推定/碑文中「既卒之六年」は撰者の執筆した時点であろう/この碑の碑文で修史館編修官甕江川田剛の原稿を同僚の成斎重野安繹が無断で添削しようとして岩倉具視が仲裁したことが依田学海『学海日録』明治11年12月2日条以降に見える/川田の稿本は『事実文編』巻74に載せ現在の碑文と異同があり前記の川田・重野の確執を反映している |